カテゴリーアーカイブ: 考える。

ポイズン毒島。

January 11 2006 23:42

ネーミングセンスということ。
 
世の中には、名前の公募ってのが、意外と多く溢れている。
なんかのイベントのマスコットキャラクターだったり、
とある施設の愛称だったり、
いろいろだ。
 
しかし、どうにも俺には納得のいかないことがある。
なぜネーミングというのは無難なところに落ち着くのか!
ということである。
 
正直、森だからモリゾーだの、
明るいイメージだから合併して大空町だの、
あまりに無難というか、
そんなのならわざわざ公募する必要もねーんじゃねーの?
ってのばっかじゃん。
なんか、諸方面との摩擦を避けるとか、
とりあえず公募して身近感を出してみようとか、
そういう意図が見え隠れして非常に不快である。
 
だいたい、公募という方法をとる最大のメリットは、
なかなか思い浮かばない優れたアイディアを集めるため、
なのは間違いない。
それが、
森だからモリゾーだの、
8チャンネルだからハチエモンだの、
その程度のもの、委員会の中で誰も考えつかなかったのか?
B★Bだの、どれどれだの、里夢くんだの、
いかにも無難にまとめてみました。みたいなの、満足か?
特に里夢くんは、里美村のキャラとして「さとみ君」だったのが、わざわざ改名を公募して里夢くん……
その程度、わざわざ変える意味はあったのか?
 
せっかく名前なんだから、もうちょっとセンスを要求してもいいんじゃないか、と思うのである。
名前なんて、普通すぎりゃぁ印象にも残らないんだから、
インパクトが命!
くらいの勢いで、多少奇抜なくらいが丁度いいのではないかと思う。
コンサドーレまで行ってしまうと、選んだほうにセンスが無さすぎたと言う他には無いが…
 
 
俺が小学校3年か4年の時、学校で新しく飼い始めた鶏だか七面鳥だか何かの名前の募集があった。
黒と白と茶が一羽ずついて、在校生全員に応募用紙が配られたのだ。俺は一晩考えた末、
 
黒「プロマン高田」
白「プロマン白井」
茶「プロマン玄米茶」
 
という名前を応募ポストに投函した。
当時はまだ「無難に…」という大人の世界の事情を理解していなかった純粋な俺は「絶対にこの名前で決まる!」と確信していたものだった。
名前はインパクトが命だ。
多少ナンセンスなくらいで、ちょっと言ってて恥ずかしいくらいなほうがいい。
慣れてくれば、他に絶対どこにも無いようなオリジナリティが誇らしく思えてくるさ。
そう信じていたのだ。
 
約半月後、結果は、
「黒ちゃん」「白ちゃん」(茶色のはなんて名前か忘れた)に決まった。
なんだそれは。
そんな、100人いれば99人が思い浮かぶような、
他のどこにでもいるような、
オリジナリティの欠片も無い名前で満足なのか。
みんな本当にそれがいいと思っているのか。
それが一番だと胸を張って言えるのか(プロマンシリーズも胸を張っては言えないだろうが)。
 
きっとその時、俺は悟ったのだ。
社会はつまらない。
刺激やシュールを避けて通っている。
だったら、俺が少なくとも俺の中でそんな道を突き進むしかないじゃないか。
 
俺がこんな性格になったのは、
前田小学校の、あの時鳥の名前を決めた奴らのせいだ。
責めるなら俺じゃなく奴らを責めてくれ。頼む。
 
 
思えば、小学校5年生の学校祭で、教室を迷路にして云々、、
ってのをやった時に、
店の名前を「おばあちゃんのぽたぽた焼き」にしようと力説したことがあった(敢え無く却下されたが)。
高校の時のバンドの名前を「私はヤモメ」にしようと主張したこともあった(その次に俺が出した「仮名書黙示録」に落ち着いたが)。
大学1年の学校祭の焼き鳥屋の名前は「喫茶ポンセ」にして、元ホエールズのポンセをキャラクターにしようと説き回った(これは通った)。
俺の半生はネーミングとの戦いだったのかもしれない(気のせいかもしれない)。
 
そして今、俺の尊敬するミュージシャンは、高橋敏幸である。
ああ、やはりこうなってしまったのには意味があったのだ。
人間の脳の思索活動の正方向への活動を休止させる力を持っているものに対する憧憬は、
きっと幼き日に刷り込まれた、大人の社会に対するトラウマなのだ。
 
と、まるでガロに寄稿できそうな勢いの文章で信仰告白をしてみたわけだが、
諸々の都合で、仕事上、大人の事情を勘案せざるを得ない状況ってのもわかってきたりもするわけで、
そんで、そんな自分がどうしようもなく嫌だったりもするわけで。
とかくこの世は生きにくい。
名前くらい自由に主張できる、そんなことも認められない社会に日本はなっちまった。



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もはや権威。

December 22 2005 23:10

かみ氏への更なるあんさー。
まず引用。

しか~し!!私は、どうしても「モテない人のモテ期」を肯定したいわけであります。
モテる人のモテ期は、一定の時期に複数からと入れ食い状態になるわけですね。
モテないひとのモテ期は、一匹釣れればいいわけですよ。
(表現としては大変失礼ながら・・・)
潜在的な好意が、一人についてのみ表面化すれば、それを「モテ期」と呼ぶことができるわけです。
盛りがついて、アタックしたときにこれが成功する確率は0ではない!
そもそも、アタックすらしない場合の方が多いのは置いときまして。
つまり、だいさんの定義する「モテ期」は、モテない人には訪れることはないでしょうが、モテない人が「モテ期だ!」と思える可能性は十分あるわけです。
それは、「人は、生来みな平等にモテ期が1回保障されている」というわけにはいかないと思いますが・・・
 
ようするに、私はボクシングのラッキーパンチ、棚から牡丹餅を過剰に信奉しようとしているわけですね。
「ママ!煙突がないからサンタさんお家に入れないよ!」
とサンタさんを信じているお子さんのように。
「いつか、白馬の王子様が私をさらって行ってくれる!」
というOLさんのように。
これじゃ~議論の余地がなくなってしまいますけど・・・
だいさんに付け入る隙がないのでいたしかたなし。
 
努力した方が早いですかね・・・
こんな感じで、クリスマスを前にして「モテない人のモテ期」を頑張って考えている寂しい私がいるのでした。

君の論の後半部分に全てが集約されているように思う。
つまりだ。サンタさんは全ての子供に平等に来るわけではない。
子供の頃に皆教えられたはずだ。
「良い子にしてればサンタさんが来るよ」と。
白馬の王子様はどんな女性にも平等に訪れるわけではない。
シンデレラの義姉たちのような悪女にそんなもんが来るなんてのは誰も思わないわけで、純潔を守り、清く正しく過ごした女性にこそ訪れるのだ。
 
ということを元に考えれば、何かを待ち望むということは、イコールそれに見合うための自己維持とセットでなくてはいけない。
「モテ期」を待望するのであれば、「モテ期」が訪れるための条件を自分が満たすような努力は欠くべからざるものなのだ。
 
もっとも、君の言うように、「モテ期」という言葉自体が、その人によって基準が上下するのは認める。
受け取り方は、その人それぞれの定義に照らすべきなのだろう。
 
しかし!
 
では、「モテ期」は必ず一度(三度説有)訪れるという風説(都市伝説)は、それぞれの基準にそれぞれが合わせて良いのかというと、論証学的にいうとそれは違う。
つまり、その風説が形成された段階で、ある一定数のサンプルがあったと予想されるわけで、そのサンプル全てが持つ基準を定義上の基準として固定しなければ、「モテ期」は一度は訪れるということの論証ができなくなってしまう。
つまり、もしこの説がモテ組の中だけで形成されたとすれば、それは彼らの基準によって形成された説であって、彼らの基準の「モテ期」が彼らサンプル全体に起こったことが確認されたとしても、それは我々モテない組に我々の基準の「モテ期」が来るということを証明するものでは無いからだ。
となると、その基準を各自の基準に変動させて考えることはできないということになり、その風説自体が無意味なものに姿を変えてしまう。
 
っていうか、モテ組とモテない組の境界なんて案外行ったり来たりなもんなので、こんなことを考えてるより、おそらく少し努力したほうがずっと早い。
世の女のコたちに迎合しろって言ってるわけではなく(最低限は必要ではあるが)、
前回も書いたように、自分の道突き進んでりゃ、気付きゃモテ組に入ってたりすることもある。
そんな「自分のための努力」が、実は「モテ期」が訪れるための条件の最大のトコだったりするのかもしれないし。
結果を求めてどうこう、じゃなくて、過程の充実が一番の結果を生み出す。
それはどんなことでも変わらないから。



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あんさー。

December 21 2005 23:55

こういう、突っ込んだり突っ込まれたり、というようなのがやりたかったんで、名前出されればアンサー即動でっさい。サポート体制抜群!
えーっと、かみ氏のミク日記の内容について。
まず引用しとこっか。

それと、だいさんの日記を見ていたら、「誰でも人生で一度はモテる時期があるらしい」とおっしゃってました。
私の聞いた事ある説では、「三回くらいモテる時期がある」って聞いてたんですけど・・・
一回だけなんですか!!
まず、そこでビックリ。
 
そんでもって、そもそも「モテ期」が発生する人は、根本的にモテる要素を備えており、そのうえに出会いのタイミングが重なる事で「モテ期」が発生するのだと。
モテる要素を持っていない人は、出会いが多い時にこそ、自らの「モテなさ」が表面化するのだと。
つまり、モテない人は恒常的にモテないのであって、一度のチャンスすら存在しないということに。
 
三回じゃなく一回すらも望みはないってことですか・・・
そんな殺生な。
そりゃ、なんとしても反駁しなくては・・・
 
そもそも「モテ期」っていうのは、モテない人でもいつかモテるっていう望みをつなぐためのものですよね?
だから、モテない人がモテる人に一時的にでも変化しなければ、そもそも「モテ期」の存在意義がなくなってしまいます。
モテる要素を持っている人は、モテない人と比較するといつでも「モテ期」なのだから、「モテ期」をわざわざ区別する必要はないわけです。
モテない人にこそ「モテ期」が必要なわけでして、だいさんの説では、モテない人にそのチャンスすら与えられないのではないかと。
それじゃ~困っちまうんです・・・
一回ぐらい恵んでくださいよ。
なんとかしてください!!

まず認識的な部分。
たしかに、我々(いっしょくたにして失礼)モテない組から見れば、
モテる人(牧くんとか森くんとか山田くんとかな)はいつでも「モテ期」に見える。
だからそういう人がいちいち「モテ期」を区別する必要はない、というロジックはわかる。至極よくわかる!(殴)
 
だが、違うのだ。
モテ組にとっては「異性がそれほど寄ってこない時期」と「異性がたくさんもぅ入れ食い状態ウーハウハっ!」な時期があるのである。
今、俺の親愛なる妹分が後者の確変状態に入ってるのでよくわかる(笑)
もちろん、前者でも、その周囲にいる異性の方々は好意の目で見ているであろう。
だがな、それがあるタイミングで一斉にアクティヴに動き出すので、後者のような明らかな「モテ期」が発生するのだ。
 
それでは振り返ってみるに、我々モテない組はどうか。
前述のような、潜在的な好意が顕在化するシステムを「モテ期」と定義するのであれば、我々モテない組は、通常から「友達としてはすごくいい人なんだけどねー。恋愛対象としては…」みたいに見られているので(何度も言われたことがある(死))、それは完全な閉塞であって、どこにも動き出すことのない好意である。
そうするとな、例えば俺やかみ氏や石野が盛りがついたとして(失礼)、周囲の何人かの女のコにアタックしたりするよな。そしたら「あー…(無音部5秒)、いい友達でいよっ!」なんてなわけだ。
これがモテない組の持つ「モテない期」のメカニズムだ。
モテ組とモテない組にはかくの如き差がある。
 
モテない人間にこそ「モテ期」が必要だという感情はよくわかるが、現実はえてして無情だ。
「モテ期」とはモテない人間が一時的にモテ組に「ちょっとおじゃましますね」なんて突然変異的に参入できるようなシステムでは無い。
つまり、かみ氏の言うような「モテない人でもいつかモテるという望みをつなぐためのもの」では決して無いのだ。
座して黙ってりゃありゃま温泉湧いてきたー、ウッホッホー(ゴリ)なんて好都合な事はないから安心しろ。
モテない組には絶対に「モテ期」は来ない。これだけは1億%断言できる。
少なくとも俺が27年と3ヶ月の人生で実証してきている(萎)。
どうしても「モテ期」を渇望するのであれば、様々な努力によって、モテ組に参入するしかない。
いろんな内的・外的変化を自分に強制的に発生させちまって、
そんで「おじゃまします。ここに居着きますので夜露死苦」なんて堂々とモテ組の神殿に上がり込めるようになって、それからだ。
 
方法は二つ。
女のコにモテるような内的・外的な鎧を作りあげていくか、
もぅモテない自分をさらけ出しながら自分の道を行くかだ。
ほら、人間って自分の道突き進んでる奴って輝いて見えるじゃん。
後者の道を選んだ俺がまだモテない組にいるので説得力はまるで無いが…
 
ともかく、モテないよー、えーんえん。
なんてウジウジ悩んでるのが一番の負のスパイラルなので、そこはアレだ。
どういう方向にしろ前を向こう、ってこったな、うん。
 
っていうか、俺はきっと今「モテ期」について宇宙で一番科学している男だな。
おーそりてぃ。



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だいという名のミステリー。

December 20 2005 22:08

自分という存在。
を規定するにあたって、客観的な目はどうしたって必要である。
ミクシィの紹介文や、回したバトンなどから鑑みるに、俺はどういう人間と見られているのか。
約15のサンプルから抽出してみると。
 
弟っぽくもあり兄っぽくもあって、
歳が離れてても仲良くなれそうで、
エネルギーに溢れていて、
悩みを相談すると常に素晴らしいアドヴァイスをするが、
ちょっと弱い部分もあって、
基本的なとこを悩んでたりもするような危ういバランスを持つ、
ある意味不器用で謎な人間。
繊細だけど自信家で、
頭良くて、
ノリも良くて、
話しやすくて、
自分の生き方持ってて、
将来はダンディーまっしぐら。
人懐っこさのようなものも持っているが、
自己の内に唯一無二の大規模な脳内宇宙を育てているので、
信念が強く頑固だが、
自分の欲望から目をそむけずにいい意味で開き直れる勇気を持つ。
謎の部分が多く、
変わり者で、
万能人だが能力の使い方を完全に間違えていて、
天才の部類に片足を突っ込んでるがそこまでいかない人間。
 
らしい(倒)
いろいろな人からのコメントをグチャグチャにまとめてみたが、
結局どんな人間なのかがさっぱりわからん。
基本的に過大評価を受けている感は否めないが…。
自分の認識している自分とは45’くらい違う(微妙)。
全体として、「謎」というキーワードが多かったので、
要するにわけのわからない人間だ、というのがきっと総体的な評価(再倒)
あー、じゃあこれから謎キャラで行こうかなぁ。
ミステリアスな雰囲気の男、っての?
…む、無理(萎)
基本的にバカですから!
バカにミステリアスな雰囲気は無理です。
夏しか似合わない男ですから!



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キーワードはモテ期。

December 18 2005 03:02

最近、何かにつけ「モテ期」の話題になることが多い。
そして思うこと。
 
よくよく考えると俺には「モテ期」などというものが来たことが無い。
人生の中で誰しも一度は来るという説がまことしやかに噂されているが、
俺にはおそらく一度も来ないで終わる見込みが大。
観察してみるに、
「モテ期」があった、という御仁には、モテる要素があるというか、
根本的にモテるのである。
それがきっと、出会いの多いタイミングに顕然とするので、
格別な「モテ期」というのが形成されるのであろうと思う。
 
ということは、だ。
根本的にモテる要素に欠ける人間にとっては、
寧ろ出会いの多いタイミングにこそそのモテなさが顕然とするのだ。
そして形成される「モテない期」。
いや、四六時中そうと言えばそうなのだが、
改めてそう時期を区切って認識してみると、なんだか勇気が涌くぜ。
 
さぁ、立ち上がろう、世の男ども(の半分くらい)。
モテなくたっていーじゃないか。
俺らには見据えるべき未来の自分の姿がある。
ウジウジ悩んでるより、そんな自分をネタにするくらいの気概で、
自分の中のコンプレックスも何もかも内燃させて行けば気も晴れる。



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価値観という価値。

December 04 2005 02:00

自分の価値観を明確に持っているということは、
他人の価値観をシャットアウトするとか、
不可侵な聖域のように振る舞うこととイコールでは無い。
 
本当に自分の価値観を持っている人間は、
その視野をよりフォーカスしたり、ベクトルを補正すべく、
他人の価値観を寧ろ積極的に吸収したがるものだ。
何故なら、彼らは個々の価値観は個々のものに過ぎず、
それを他人に敷衍することが無意味だということを知っている。
そして自分の中だけのものはすぐに飽和して腐食することも知っている。
だから、他の物を取り入れることによって、
自分の位置が、方向が正しいのか間違っているのかを比較・判断するのである。
 
一方、他人の価値観や意見を聞こうとしない人間は、
自分の価値観を持っているのでは無い。
その人間の周囲の価値観という非道く限られた狭いコミュニティの規範を、社会の通念だと錯覚しているだけだ。
もしくは、他人の意見を否定したいだけのガキんちょかどっちかだな。
 
価値観というものは、固定できるほど容易いものでは無いし、
絶えず新陳代謝を繰り返しながら自分の中の美意識と相互の問いかけを続け、人生の中で胎動するという、そんなものだ。



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恋愛論。

December 03 2005 00:19

珍しく書いてみよーじゃないか。
 
まぁ、もう色恋うんぬんってこともきっと無いだろう。
と思うのは、俺がもう若くないからである。
と言っちまえば語弊があるか。
まぁ端的に言っちまえば、人生ってもんを長いスパンで考えるのが癖になり過ぎちまって、女のコに対する熱情のようなものがなかなか湧いて来ないわけだ。
 
美味しんぼでも荒川さんと田畑さんの件の時に言ってたけど、
このくらいの歳になっちまうと、まずやっぱ自分の価値観とか人生ありきで、やっぱどう生きていくかってのが主要命題なわけで、
まず女のコがいて云々、ではなくて、まず根幹に人生があって、ってなっちまうわけだ。
 
そんなだと、理想も高くなるし、自分の目標や夢に向かって一緒に歩ける価値観を持ってる人を探さざるを得ないわけで、
でもそんなのは事実上不可能なわけで、
なら別にいーや、ってなもんである。
 
まぁもともと性格的にそういうのが向いてないんだろうなぁ、ってのもある。
どっちかってーと、友達や、妹のような存在たくさん作ってワイワイやってるほうが好きだし。
いろんな相談受けたりして、
よっしゃ一肌脱いだる!
ってな兄貴分的なコミュニケーションが一番しっくり来るんだよなぁ。
 
基本的に自分の中でいろんなこと完結できるタイプなんで、
そういう人って色恋沙汰向いてないです。
そりゃぁ一緒に人生のいろんな悪路を時には背負って、時には手を繋いで歩いていけるような存在がいればいいなぁ、とは思うけどさ、いなかったらいなかったで仕方ねーし。
ってか、その悪路の踏み越え方が違う人と一緒に進むのは逆に大変だと思うし。
昔から俺は晩婚を自称してきたが、そんなわけで、晩婚どころか生涯独身貴族となるのだよこれが。
みんなだんだん身を固めていく空気が周囲に漂っておりますが(笑)、俺はその空気から外れた所にいるから(笑)
自分が云々よりも、親愛なる弟たちや妹たちの相談受けてるほうが俺は楽しいし。
一人でもここに立ってられるから、それでいい。



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バランスということ。

November 12 2005 21:13

バランスというのは、何事においても重要である。
というのは論を待たないと思うが、ただし、そこには注意が必要だ。
 
一般的には、何事も偏らず中庸を保てる人間がバランスの良い人間とされるが、そんなバランスの保ち方じゃ、何の意味も意義も無いだろう、と思うのである。
そんなバランスってのぁ、結局は常識や一般性の権化に過ぎず、没個性もいいとこ。
何をするにも、何を話すにもわかりきった常識的なことしか言わない人間の何が面白いというのか。
 
バランスの取り方の理想型は、両極端である、ということだと思う。
ある一面を見れば極端な価値観で、でもまた他の一面を見れば、それを相殺する反動の価値観で。
それでいいじゃないか。
それがいいじゃないか。
例えば、ある案件に関してはすごく攻撃的なのに、
ある一面に関してはすごく保守的だとか、
要するに白黒はっきりさせるということ。
何でも曖昧、日和見にしちゃって物事が進まないより、
きっちりメリハリつけてやったほうが結果も出るわけで。
信念を持って、それに即してやっていくのって、重要。
右翼も左翼も中翼も良くない。
飛行機だって、右翼だけでも、左翼だけでも、ましてや胴体だけじゃ飛べないわけだ。
その時その時であっちゃ行ったりこっちゃ行ったり。
自分が自分であるために一番いい場所を、慣例や惰性とは別に極端に動き回ろう。
 
ある部分ではこうだったから、この部分もこう来ると思ったらこう来たか!
っていう掴み所の無い、バランスの取れた人間に、ワタシハナリタイ。



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誰ぞやが6日ほど前に綴った文章についての一考察。

September 27 2005 21:03

全面的に否定されるべき人間なぞ存在しない。
同様に、全面的に肯定されるべき人間も存在しない。
人間なんてものは、一面的なものでは無い以上、肯定されるべき部分と否定されるべき部分は必ず両方とも存在する。だから、いいものはいい、悪いものは悪い。それでいいじゃないか。
どんなに自分が自分のことを否定的に見ようとも、そんなもんは自分の中の一面を見ているに過ぎない。案外、他人には自分のいいトコが見えてるものだったりもして、それはそれで納得できるかどうかは別として、理解はするべきなのだろう。そしてそれは親しい人からのものであれば尚更。人間、いかにどうこう考えて、いろいろ取り繕ったり何だったりしてみても、そんなもんが通用するのは一時的なものだけで、長く付き合ってりゃぁ、どうしてもいいトコと悪いトコのバランスってのは、無意識に表出してくる。そんで悪いトコとかも踏まえた上でいいもの見てるわけだから、それは結局自分が見てる自分なんかよりずっと真実だったりして。
そう考えれば、ある意味では自分で自分のことを何らかの考察やら客観的な観察やらをする意味など無いとも言える。そこには必要以上の自意識のフィルターを通した景色しか無い。だから、自分を総体的に肯定も否定もせず、どちらでも無くどちらでもある、そんなありのままを何も考えずに受け入れていくしか無いのだ。時に自分を盲目的に肯定して、時に自分を破滅的に否定しきって、その混在のバランスこそが、人間の面白いトコじゃねーか、と俺は思うわけだ。



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その道を行ケ。

September 18 2005 02:51

前だけを見ようという、日常の一心不乱で自意識過剰で自分勝手で前向きな自己愛の結果、
さぁ牙は生え揃ってきたぜ。ここからだ。
 
 
人間なんてもんは、周囲の環境の影響を極度に受けやすいもので。
おそらく自分が思ってるよりもずっと、みんな間違いなく強い影響を受けてる。
だから、選べる環境に関しては、しっかりと選んで、いいオーラの中に自分を置かねばならない。
 
例えば、後ろ向きな考え方や、ひねた考え方、現実的な考え方しかしないような人に囲まれて過ごしてりゃぁ、
どんな人だって自然とそっち方向に引きずられるわけで。
これは別に人間環境のことだけではなくて、テレビ番組だって、音楽だって、本だって、ネットだって一緒。
「現実なんてこんなもんだ」とか、
「なにしゃかりきになってんだよ」みたいな内容のもの目にしてりゃぁ、絶対に引っ張られるんだって。
だから、負のベクトルを生活の中から少しでも削減して、
仕事やら何やらでどうしても不可避な部分に関しては、
それ以上に正のベクトルを、なんやらかんやらの情報ソースからどんどん摂取して、
自分内ベクトルを正に向けとくしかない。
 
たしかに日常のいろんなことは厳しいけど、
でもそれを仕方ないとか思ったり、
こんなもんかと思って努力をやめたり、
そんなんで自分の人生に妥協するような、そんな生き方すると、後で後悔するの自分でわかってっから。
自分の理想と現実の乖離を、嘲笑したり、自虐的にナナメから見たり、そんなのはもぅ結構。
真っ正面から見てさ、そんでそれを受け入れてその上で乗り越えていこー、なんて、そんな意志。
それをしっかり後押ししてくれるようなナンタラカンタラをいつだって選択して、そんで自信深めちゃったりなんかして。
 
自分一人じゃできないから、まず環境から。
 
 
(塀内夏子「史上最低のレガッタ」第2巻より)
 
少年院での一コマ。
母親をかばって父親を刺殺し、さらに公判中に息子をかばうために母親までが自殺してしまったため、罪の意識から監房で出家した吉原が、その罪の意識を乗り越えた直後のシーン。
 「どんなにつらくても、苦しくても、人間は否応なく「明日」におしだされてしまう。
ならば生きていくしかない。
 人間の足は、前に行くようにできているみたいだからね…」



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