ポイズン毒島。

January 11 2006 23:42

ネーミングセンスということ。
 
世の中には、名前の公募ってのが、意外と多く溢れている。
なんかのイベントのマスコットキャラクターだったり、
とある施設の愛称だったり、
いろいろだ。
 
しかし、どうにも俺には納得のいかないことがある。
なぜネーミングというのは無難なところに落ち着くのか!
ということである。
 
正直、森だからモリゾーだの、
明るいイメージだから合併して大空町だの、
あまりに無難というか、
そんなのならわざわざ公募する必要もねーんじゃねーの?
ってのばっかじゃん。
なんか、諸方面との摩擦を避けるとか、
とりあえず公募して身近感を出してみようとか、
そういう意図が見え隠れして非常に不快である。
 
だいたい、公募という方法をとる最大のメリットは、
なかなか思い浮かばない優れたアイディアを集めるため、
なのは間違いない。
それが、
森だからモリゾーだの、
8チャンネルだからハチエモンだの、
その程度のもの、委員会の中で誰も考えつかなかったのか?
B★Bだの、どれどれだの、里夢くんだの、
いかにも無難にまとめてみました。みたいなの、満足か?
特に里夢くんは、里美村のキャラとして「さとみ君」だったのが、わざわざ改名を公募して里夢くん……
その程度、わざわざ変える意味はあったのか?
 
せっかく名前なんだから、もうちょっとセンスを要求してもいいんじゃないか、と思うのである。
名前なんて、普通すぎりゃぁ印象にも残らないんだから、
インパクトが命!
くらいの勢いで、多少奇抜なくらいが丁度いいのではないかと思う。
コンサドーレまで行ってしまうと、選んだほうにセンスが無さすぎたと言う他には無いが…
 
 
俺が小学校3年か4年の時、学校で新しく飼い始めた鶏だか七面鳥だか何かの名前の募集があった。
黒と白と茶が一羽ずついて、在校生全員に応募用紙が配られたのだ。俺は一晩考えた末、
 
黒「プロマン高田」
白「プロマン白井」
茶「プロマン玄米茶」
 
という名前を応募ポストに投函した。
当時はまだ「無難に…」という大人の世界の事情を理解していなかった純粋な俺は「絶対にこの名前で決まる!」と確信していたものだった。
名前はインパクトが命だ。
多少ナンセンスなくらいで、ちょっと言ってて恥ずかしいくらいなほうがいい。
慣れてくれば、他に絶対どこにも無いようなオリジナリティが誇らしく思えてくるさ。
そう信じていたのだ。
 
約半月後、結果は、
「黒ちゃん」「白ちゃん」(茶色のはなんて名前か忘れた)に決まった。
なんだそれは。
そんな、100人いれば99人が思い浮かぶような、
他のどこにでもいるような、
オリジナリティの欠片も無い名前で満足なのか。
みんな本当にそれがいいと思っているのか。
それが一番だと胸を張って言えるのか(プロマンシリーズも胸を張っては言えないだろうが)。
 
きっとその時、俺は悟ったのだ。
社会はつまらない。
刺激やシュールを避けて通っている。
だったら、俺が少なくとも俺の中でそんな道を突き進むしかないじゃないか。
 
俺がこんな性格になったのは、
前田小学校の、あの時鳥の名前を決めた奴らのせいだ。
責めるなら俺じゃなく奴らを責めてくれ。頼む。
 
 
思えば、小学校5年生の学校祭で、教室を迷路にして云々、、
ってのをやった時に、
店の名前を「おばあちゃんのぽたぽた焼き」にしようと力説したことがあった(敢え無く却下されたが)。
高校の時のバンドの名前を「私はヤモメ」にしようと主張したこともあった(その次に俺が出した「仮名書黙示録」に落ち着いたが)。
大学1年の学校祭の焼き鳥屋の名前は「喫茶ポンセ」にして、元ホエールズのポンセをキャラクターにしようと説き回った(これは通った)。
俺の半生はネーミングとの戦いだったのかもしれない(気のせいかもしれない)。
 
そして今、俺の尊敬するミュージシャンは、高橋敏幸である。
ああ、やはりこうなってしまったのには意味があったのだ。
人間の脳の思索活動の正方向への活動を休止させる力を持っているものに対する憧憬は、
きっと幼き日に刷り込まれた、大人の社会に対するトラウマなのだ。
 
と、まるでガロに寄稿できそうな勢いの文章で信仰告白をしてみたわけだが、
諸々の都合で、仕事上、大人の事情を勘案せざるを得ない状況ってのもわかってきたりもするわけで、
そんで、そんな自分がどうしようもなく嫌だったりもするわけで。
とかくこの世は生きにくい。
名前くらい自由に主張できる、そんなことも認められない社会に日本はなっちまった。


Categories: 考える。

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