月別アーカイブ: 12月, 2005

ゆく年。

December 31 2005 23:40

思えば、人生の中で最も波瀾万丈だった1年。
いつの間にやら社会人という肩書きをいただくようになり、
改めて自分が一般社会不適合者であることに気付かされ、
様々な人との久々の再会があったり、
新しいことへのチャレンジも始めてみたし、
ついでに言えば、生涯独り身を決めてみたりして。
人生なんてもんは、結局は諸々のタイミングのアレに過ぎないんだけれども、
一つ一つのタイミングが、俺にとって最悪な時期に来たりしたのは、
決して偶然なんかではなくて、
両端に俺と何かを結わえた運命なんてもんが、あるんだろうから。
仕事もプライベートも、つらいことばかりだったりするけど、
でもさ、そんなのに翻弄される自分を、
そのまま受け容れるっきゃない。
そんで、その瞬間の、自分にとって最善の選択を、
絶えず選ぼうとしていくっきゃない。
さらば、無駄に悩んでた俺。
こんにちは、真摯に悩んでる俺。



Categories: 普通の日。

1978。

December 30 2005 21:59

いろんな人から、いろんないい影響を受けて、生きている。
刺激を受けたり、優しい気持ちになったり、前を向けたり。
本当に、いつも、いつも、感謝しています。
俺の生き方は、誰かに何か影響を与えることができているのかなぁ。
影響を与えることができるようになるのかなぁ。
いつか、そうなるために、今、できること。
精一杯進んでいくことだけだよなぁ、うん。
逃げないぞっと。



Categories: さんきゅ。, 思う。

現実ではない恋の詩。

December 28 2005 22:01

抑えきれないものは、そりゃぁ、ある。
でも、君は、いつでも俺のそんな感情に、気付かないふりをする。
困るのは、わかってるし、仕方ないから、悔しくは、ないけど。
 
現実ではない恋の詩。
幸福は誰にも平等にやってくるわけじゃない。



Categories: ふたり。, 思う。

針。

December 27 2005 23:10

嫉妬とか、渇望とか、献身とか、人間のいろんな感情や理性の中で、
いつだって自分の幸福に向かって行く先は決まる。
ある事象について、それが半面、自分にとって幸福であって、
また他の半面、自分にとって望むべからざるものである場合、
奥底の針は、行く先を見失い、樹海の中のように激しく回転して。
それをえいやっ!なんて親指で強引に押し留めたりして、
そんで切れて返り血。
でも、傷はいつか治るから。
今は、そっちのほうが、大事。
ちょっと染みるけど、少しくらい我慢してみっから。



Categories: 思う。, 自分という存在。

全力ロマンチスト。

December 25 2005 23:05

いつだって妥協はしないから、喜びも、悲しみも、全部ぶつけて、ぶつけられて。
理想ばっか見てると言われても、それでいい。
愛とか恋とか、そんなのは結局は究極の自己満足で。
だから、恥ずかしくても、精一杯、貫くものがあるんだ。
全力ロマンチスト。



Categories: 感情。

大切な。

December 24 2005 21:18

まこ氏の日記に触発されて、俺も俺なりに書く。

たとえば、だれかが、十個、贈りものをもってくる。
みっつくらい、自分の望まないものだったとしたら、
残りのななつは、どうしますか。
センスのないみっつは、どうしますか。
それらをもってきた相手を、どう思いますか。

っていうか、きっと俺には、十個も持ってこなくていいよ。
最初からそんなことは望まない。
たいがいの物は、欲しけりゃ自分で集めるし、
もう持ってるものだって、きっと、たくさん、ある。
ただ、どうしても欲しくても手に入らない何か1つか2つだけ、持っていてくれればいい。
例えば1000個の贈り物の998個が望まないものだったとしても、その1つか2つで、きっと、愛せる。
 
そんな愛し方は、いけないかな?



Categories: ふたり。, 思う。

仲良しさん。

December 23 2005 23:48

なんだかんだで、5年以上続いてるお友達の中では、今となっては間違いなく一番会ってるコだったりする。
同じ札幌に住んでる奴でも年に1回会うか会わないかの奴ばっかなのに、横浜という距離がありながら半年で4回ってのは、やっぱなんだかんだで仲良し兄妹なんだろうな。
 
尊敬できるその思考様式と、
人を温かく包むことのできる眼は、
毎回毎回、社会で曇りかけた俺の原感情を、光り輝かせてくれる燈台。
こんなに尊敬できる人間が身近にいるということは、
本当に、幸せなことだと、今日も実感。
 
今後は更に遠くなって、会う機会もずっと減るだろうけど、
その存在に頼らずとも、原感情を決して曇らせることのないよう、
そして数少ない会う機会に、寧ろ俺が同じようにしてあげられるよう、
マヂで努力するっきゃない。
変わらぬ友情と愛情が、きっと俺の中の一番のモチベーションになるから。
そして、お互い、今日着たような服が着れなくなるような齢になって、
それでも、今日のように、騒いで、話して、 そんで、40年も50年も前のことを振り返って、 今日のような温かい眼をしていられることを願う。



Categories: さんきゅ。, 思う。

もはや権威。

December 22 2005 23:10

かみ氏への更なるあんさー。
まず引用。

しか~し!!私は、どうしても「モテない人のモテ期」を肯定したいわけであります。
モテる人のモテ期は、一定の時期に複数からと入れ食い状態になるわけですね。
モテないひとのモテ期は、一匹釣れればいいわけですよ。
(表現としては大変失礼ながら・・・)
潜在的な好意が、一人についてのみ表面化すれば、それを「モテ期」と呼ぶことができるわけです。
盛りがついて、アタックしたときにこれが成功する確率は0ではない!
そもそも、アタックすらしない場合の方が多いのは置いときまして。
つまり、だいさんの定義する「モテ期」は、モテない人には訪れることはないでしょうが、モテない人が「モテ期だ!」と思える可能性は十分あるわけです。
それは、「人は、生来みな平等にモテ期が1回保障されている」というわけにはいかないと思いますが・・・
 
ようするに、私はボクシングのラッキーパンチ、棚から牡丹餅を過剰に信奉しようとしているわけですね。
「ママ!煙突がないからサンタさんお家に入れないよ!」
とサンタさんを信じているお子さんのように。
「いつか、白馬の王子様が私をさらって行ってくれる!」
というOLさんのように。
これじゃ~議論の余地がなくなってしまいますけど・・・
だいさんに付け入る隙がないのでいたしかたなし。
 
努力した方が早いですかね・・・
こんな感じで、クリスマスを前にして「モテない人のモテ期」を頑張って考えている寂しい私がいるのでした。

君の論の後半部分に全てが集約されているように思う。
つまりだ。サンタさんは全ての子供に平等に来るわけではない。
子供の頃に皆教えられたはずだ。
「良い子にしてればサンタさんが来るよ」と。
白馬の王子様はどんな女性にも平等に訪れるわけではない。
シンデレラの義姉たちのような悪女にそんなもんが来るなんてのは誰も思わないわけで、純潔を守り、清く正しく過ごした女性にこそ訪れるのだ。
 
ということを元に考えれば、何かを待ち望むということは、イコールそれに見合うための自己維持とセットでなくてはいけない。
「モテ期」を待望するのであれば、「モテ期」が訪れるための条件を自分が満たすような努力は欠くべからざるものなのだ。
 
もっとも、君の言うように、「モテ期」という言葉自体が、その人によって基準が上下するのは認める。
受け取り方は、その人それぞれの定義に照らすべきなのだろう。
 
しかし!
 
では、「モテ期」は必ず一度(三度説有)訪れるという風説(都市伝説)は、それぞれの基準にそれぞれが合わせて良いのかというと、論証学的にいうとそれは違う。
つまり、その風説が形成された段階で、ある一定数のサンプルがあったと予想されるわけで、そのサンプル全てが持つ基準を定義上の基準として固定しなければ、「モテ期」は一度は訪れるということの論証ができなくなってしまう。
つまり、もしこの説がモテ組の中だけで形成されたとすれば、それは彼らの基準によって形成された説であって、彼らの基準の「モテ期」が彼らサンプル全体に起こったことが確認されたとしても、それは我々モテない組に我々の基準の「モテ期」が来るということを証明するものでは無いからだ。
となると、その基準を各自の基準に変動させて考えることはできないということになり、その風説自体が無意味なものに姿を変えてしまう。
 
っていうか、モテ組とモテない組の境界なんて案外行ったり来たりなもんなので、こんなことを考えてるより、おそらく少し努力したほうがずっと早い。
世の女のコたちに迎合しろって言ってるわけではなく(最低限は必要ではあるが)、
前回も書いたように、自分の道突き進んでりゃ、気付きゃモテ組に入ってたりすることもある。
そんな「自分のための努力」が、実は「モテ期」が訪れるための条件の最大のトコだったりするのかもしれないし。
結果を求めてどうこう、じゃなくて、過程の充実が一番の結果を生み出す。
それはどんなことでも変わらないから。



Categories: 考える。