月別アーカイブ: 11月, 2004

人間関係という非道く重大な自分内環境について。

November 30 2004 23:04

一般的な意味に於ける人間関係の構築というのは、結局は他者とのコミュニケーションというものの中で、いかに相互的な共通理解的価値観を摺り合わせていけるかだと思うわけですよ。つまり、そこには相手との絶対的な「常識範囲」の共有というか、価値観のものさしの画一化によってされる相互評価こそが、通常の人間関係だと思うわけで。
ところが、俺はどうしてもこういう形の人間関係が構築できないわけです。というのも「こういう場面ではこういう対応をすべき」とか「こういうことを言うと面白い」とか、「こういうものはこう評価すべき」とか、そういう共通価値観が、どうも他人と共有できないんですよ。俺の中の価値観が他の人と噛み合わないというか。
いや、もっとも、他人との価値観のズレってのは大なり小なり、誰もが抱えているとは思うんですけどね。でもそれをメディアやら何やらからの外部情報によって自分の価値観ってのを補正していくわけじゃないですか。で、そうやってそれぞれの価値観ってのが「常識」の枠の中に収束していって、話題やら評価基準やらなんやらの共通化が行われるわけだと思うんですよね。
でもどうやら俺にはこういう能力が欠如しているようなんですよ。人間関係構築能力の欠如とでも言うんでしょうか。何故か、自分の価値観を補正することができない、というか、そういう欲求がまるで芽生えてこないんですね。あくまでも自分の行動は自分内部の行動規範によってのみ意志決定されるんです。それが他人の常識の枠から外れていようがいまいが、関係ないんです。そういう意味では、俺は現代の一個の社会人としては不適応者なのかもしれません。
要するに、他人の評価ってのを全く気にしないんですよ。結局は「こういう考え方をしないとみんなと合わない」とか「こういうことを言うとつまらないと思われる」とか「こういう風だと嫌われる」とかそういうことから価値観の補正の必要ってのが出てくるんだとは思いますが、正直、どうでもいいとしか思えないんです。だって、別に嫌われようがどう思われようがいいわけじゃないですか。全ての人がそうなわけじゃありませんし。周囲には、ごく少数とはいえ、俺のこの価値観を理解してくれる人もいますから、別にそれでいいんです。全ての人と恙無くやっていくことが立派とも思いませんし。実際、「変なやつ」「付き合いにくいなぁ」とは思われてると思いますが、周囲の人々と人間関係をやっていくうえで、別段これといってトラブルはないわけですよ。最低限それなりの対応はできますから。
 
ところが、こと恋愛関係になってしまうとそうはいかないわけですよ。だって、恋愛関係ってのはどうしても相手からの評価ってのを必要とするわけで、そのためにどうしても相手に合わせる場面ってのが出てくるわけじゃないですか。それは要するに自分の行動基準に無い行動を取るということですよね。その結果として、自分のとっている行動が正しい行動なのかどうかの規準をどこに置いていいかがわからなくなって、右往左往してしまうわけですよ。もともと、一般的な共通理解的価値観を有している人であれば、その規準に従って行動すればさほど問題無いわけですけれども、俺の如き有していない人間にとっては、それこそ場当たり的というか、一挙手一投足が苦悩の連続です。
例えばメール一つとっても、「こういうことを書くと嫌がられるんじゃないか」「この文面はもぅ嫌がられているということだろうか」「この顔文字を使うとおかしいだろうか」etc…。最終的にはもぅ何が何だかわからなくなるわけで。
モテる男性でしたら「俺についてこれる奴だけついて来いやー」なんてできるんでしょうけども、残念ながらモテる男性の部類には入りそうもありませんもので、やっぱどうしても相手本位になってしまうのですよ。そして辿り着くところが、自己嫌悪や焦燥感。精神の疲労困憊。
 
だから人を好きになるのは嫌いなんです。自分が自分でいることこそが心の平穏と思ってる人間にとって、自分を自分で無くしてしまう悪魔のような存在なのですよ。でもどうして古来よりいくつもの物語に描かれているように、悪魔というものは甘美な誘惑で近付いてくるのでしょう。何度も何度も騙されて、苦しい思いをしてわかっているはずなのに、避けられないのは何故なんでしょうか。
嫌なんですよ本当に。俺に近付かないでください。できないことはわかりきっているんですから。向いていないことまで平気でやり遂げるほどのキャパシティは持っていないんですよね、残念ながら。そんな痛みをはね除けるだけの心の強さは持っていないんです。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。



Categories: トンガリ。

誰かと誰かの時間。

November 26 2004 23:20

男も女もみんな自分勝手すぎるぜ。
他人を傷つけたくないってのは結局、自分が傷つきたくないことの裏返しで。そんな自分に陶酔するためのマスキング行為にすぎないわけで。それに振り回される奴らが一人、二人。
 
引導を渡すなら早く。



Categories: 感情。

二律背反。

November 25 2004 22:41

二律背反。
結局は、そういう気持ちに甘えたい自分と、抗いたい自分がいて。
でもそれはいつでも、自分のコントロール不可能な範囲までに大きくなってばかりで。
わからないことばかりが真実とは思わないけど、
ただ無意識の誤謬法に導かれた表層の感情もあるのだとは思う。
結局は何の成果もない一喜一憂に、どうして俺は何度も足を踏み入れるのやら。
いつだって後に残るのは虚無感と焦燥感。
 
知ったことかよ。
どうにでもなれ。



Categories: 感情。

巡り逢った頃へ。

November 24 2004 00:47

なんとなしに、個人リンクのチェックをしてみたら、消えてる頁が4件ばかしあった。
主に昔のチャット友のもの。
だいたいの場合は就職やら何やらで更新が滞ってるうちに消えてしまったようだが。
 
さみしーなぁ。
やっぱネッ友ってのはHPだけが頼りみたいなとこがあるから、
それが閉鎖になっちゃうと、もぅ二度と話す機会もないのかなぁ、としみぢみ。
学校やらなんやらのリアルコミュニティの友人であれば、いろんなつてで連絡取ることもできるけど、
ネッ友の場合、そういうのもないことが多いから。
カキコをするも多生の縁。
せっかくなんだから、過ぎ去るだけってのも嫌じゃんよ。
 
ゐ。ともさん。まりっぺ。顎っち。
その他大勢の「多生の縁」ある方のHPは末永く生き続けることを祈る。



Categories: 普通の日。

コントロール、コンセントレイション、コンフィデンス。

November 22 2004 02:46

自分のキャパシティが試される場所。
そんな場面で当たり前のように切り込める奴はすごい。
顔色を窺いながらタイミングを計るも、結局は考えすぎて逸機。
そんな俺みたいな人間との決定的な差ってのは、
経験なのか、
自信なのか。
退路のない状況に追い込まれたらできるのに、
そうじゃなければ周囲に任せちゃうのは、やはり自信の問題?
 
相手の心の中が見えるスコープを下さい。
そんなことを言ってる段階で、既にダメなのはわかってるけど。



Categories: 思う。, 自分という存在。

SAILING。

November 20 2004 22:17

向かう所が何かはわかるような、わからないような。
でもそんなことが問題なんじゃなくて、結局は自分をどこまで愛せるかでしょ。
愛しすぎて甘やかしちゃダメだし、
愛さなさすぎてなげやりになってもいけない。
そんな微妙なバランスの中でたまに思い切ったりなんかして、
そんで向かうトコ、
見えるような、見えないような。
 
Move On。



Categories: 思う。, 自分という存在。

いつかのコドナ。

November 19 2004 23:50

今年は身近な失恋関係のトラブルが多々あって。
ごく近しい人の悲しい顔を見るのは、そりゃまぁ辛いもんです。
 
振り返って自分を見るに、
どうも今はそんなだけのパワーが無いというか、何と言うか。
色恋沙汰に割くだけのキャパシティが今の自分の中にはほとんど存在しないわけで。
どっちかってーと、そういうモードに入っちまうと盲目というか、
大事にしたい欲が強すぎて前後不覚になるタイプなんで、
これはこれでいいかな、とも思うし。
 
人が好きだのどーのってのは、自分の認識以上にエナジーを消費してしまうもので、
それが尽きてカラータイマーが鳴っているのかな、と自分では納得してるけど。
今はあまりそこに真剣にのめりこむことはできないし、する気にもならない。
軽い気持ちで、ってのはやぶさかでもないけど、そんな状況にあるわけでもないし。
そんなことを思いながら、周囲の狂騒を微笑ましく見ています。
 
 
日々の生活が忙しいせいなのか、齢を重ねたせいなのかはわからないけど、パワー減少中。
でもその自分に残されたキャパは、自分の人生にリンクする場所に大事に使うの。
 
それで満足しちゃう自分は、大人なのか、子供なのか、どっち。



Categories: トンガリ。

光露。

November 17 2004 18:33

書き殴る、という言葉が、まさに字面の如く「殴る」という言葉を語源としているのであれば、それはまさに俺のしていることそのものを表しているわけで。
 
だってさ、感情のまま、理性も知性もルーティングしないで勢いで書きつけてるのは、
まさに殴るという行為の本質と同位のものではないかと思ったりするし。
ただ、俺の価値観としては、感情だけの文章というのは、文筆のありかたとしては失格なのではないかというのがあって。
そういう意味では、俺の文章なんつーものは、俺からとってみりゃぁ、書き散らしただけの駄文で。とても刮目して見るには耐えがたいものだとしか言いようが無く。
とはいえ、この羞悪に堪えない行為こそが、俺の精神の均衡を保つ最大の手段であることも事実で。
言いたいことを表現させてくれない社会のシステムの中で、犯罪に当たらない方法で感情を発露できるメソッド。
 
それは世間へのストラグルであったり、
周囲への罵倒であったり、
安易に近付かないほうがいいですよ、という警告であり、
無力でチープで愚かな自分へのシャハーダ。
 
そんなコンプレックスだらけのオマージュ。



Categories: 考える。

変わりゆく全てのもの。

November 16 2004 00:56

明茶への鎮魂歌。
 
今、以前にも書いた理由とは全く別の理由で明茶は瓦解の兆し。
もっとも、他の人は誰もそう思ってないかもしれない。
そりゃそうだ、あくまでも瓦解を始めたのは、俺の中での明茶。古き良き時代の明茶だから。
 
おそらくは、活動の時最もテンションの高かったであろう俺も、
今はただバドミントンをして、合間に3~4年生と二言三言話す程度。
というのも、かつては活動に顔を出すほとんどの人に共通してあった、明茶としての紐帯というか、共通のコミュニティ意識というものが、現在の活動の風景の中には存在しないのだ。
良くも悪くも、その場の刹那的な言葉のやりとりのみが応酬されてるだけで、昔のような、相手のことに真剣に向かい、赦し合えるような家族的・牧歌的な空気は失われてしまったのだ。
 
もちろん、サークルというものに、ミントンに集中できるような雰囲気を求める人もいるだろうし、
仲の良い人だけでかたまって、それぞれワイワイやればいいじゃん、って人もいるだろう。
それはそれぞれのコミュニティ論があるだろうから、それに対して肯定も否定もしないし、するべきではない。
ただ、俺ら一期生がゼロから作り上げた明茶というもの、
その持っていた本質が変容してしまっただけのことであって。
カルト的なコミュニティの強い結合力が、組織の肥大化の中で失われて緩い派閥集団に遷移していくのは絶対的な理だから。
ちゃ★まにも北チャもそうだったし、それはわかってることで。
ただ、つまらないノスタルジー。それだけのこと。
 
 
古里は遠きに在りて思ふもの。
帰る故郷の在りてこそ、遠きにて思うこと叶う。
既に故郷を失いし者は何を思うれば良いか。
然り、胸の中の故郷を思うしかないではないか。
願わくば我等の友情や愛情こそ消えることの無かりしことを。
安らかに眠れ。



Categories: 感情。

柔の道も。

November 14 2004 23:15

河合克敏「帯をギュっとね!」全30巻いまさらながら読破。
サンデーの看板漫画家の一人らしいけど、
なんせサンデー系は俺の苦手な感じのが多いんでノーマークでした。
サンデーって、子供っぽいのかオタっぽいのかばっかだけど、
帯ギュは、その両方のテイストを漂わせつつも、
ちゃんとしたスポーツ漫画として成り立たせているのが好感。
その原因を探るに、作者が柔道経験者らしいことも大きいのではないかと思う。
序盤の巧と保奈美、さらに石塚や平八郎が絡むストーリーや、桜子の保奈美と対照的なキャラ付けを見ても、
柔道ってのを題材に、ラブストーリーを描くという、ありがちで陳腐な方向性を最初は指向していたとも思われる節があるものの、
最終的には、試合の描写に力を入れるあまり、巧と藤田のライバル関係を中心とした、浜名湖柔道部のサクセスストーリーに変化していったようだ。
それは、藤田以外にも、鳶島(弟)や玉城といった「全くラブストーリーの絡まないライバル」の存在が大きくなっていったことからも見て取れる。
事実、ラブストーリー的な要素を脱却して以来、斉藤や宮崎、真理といったキャラクターの活躍の場が増えたこともその証左になるのではないかとも思う。
これは、終盤の欄外で「ヴァン・デ・ヴァル投げも出さなくなったし~」っていう下りで作者自身が回顧しているように、やはり作品そのものに対するスタンスが「柔道としてのリアリティ」を重視するスタンスへと変化していったことを作者自身も理解していて、それに伴ってのメインキャラ構成の変化であったろう。
その意味では、序盤でラブストーリー用キャラとして個性付けされた平八郎、石塚、袴田姉弟などは、10巻を過ぎたあたりから圧倒的にその存在感を無くし、序盤キャラの中では唯一、全く恋愛沙汰の絡みようのない(笑)永田だけが最後まで個性を放ち続けたのも皮肉と言えば皮肉な話だろう。
 
本人がこの熱血側に偏った変容を否としたのか、はたまた編集サイドからの要望があったかは知らないが、終盤になって急に思い出したようにラブストーリー的な要素を絡ませ始めるが、その結果として「内気で友達の作れない」別所さんや、「クールで飄々とした」斉藤など、せっかく中盤からキャラ立ちしていた二人をみすみす没個性にさせてしまったのは残念でならない。
もっとも、主人公でありながら保奈美との関係以外は完全に没個性だった巧が生き返り、柔道路線の中で冷遇されていた杉がエピローグで輝きを放つという効果はあったので、作者の試みが成功している部分もあるのだろうが。
 
それにしてもやはりあだち充を筆頭とした、爽やかスポーツラブストーリー路線、っていうやはりサンデー体質が見て取れ、全体としてライトな読み心地で読み込めたのは事実。
雰囲気としては、ゆうきまさみのお手軽さにも近いか。
塀内先生の感動路線や、水島新司のアクの強さに慣れきった俺には、少々物足りなさの残った感はあるが、感情移入するでなく、フワーっと読むにはいいのかもしれぬ。
ただ、こういう漫画は、自分で金出して買う気はしないが。
 
島本先生がサンデーからフェードアウトした理由もわかるってもんだ(笑)



Categories: カルチャーの嵐。