もはや権威。

December 22 2005 23:10

かみ氏への更なるあんさー。
まず引用。

しか~し!!私は、どうしても「モテない人のモテ期」を肯定したいわけであります。
モテる人のモテ期は、一定の時期に複数からと入れ食い状態になるわけですね。
モテないひとのモテ期は、一匹釣れればいいわけですよ。
(表現としては大変失礼ながら・・・)
潜在的な好意が、一人についてのみ表面化すれば、それを「モテ期」と呼ぶことができるわけです。
盛りがついて、アタックしたときにこれが成功する確率は0ではない!
そもそも、アタックすらしない場合の方が多いのは置いときまして。
つまり、だいさんの定義する「モテ期」は、モテない人には訪れることはないでしょうが、モテない人が「モテ期だ!」と思える可能性は十分あるわけです。
それは、「人は、生来みな平等にモテ期が1回保障されている」というわけにはいかないと思いますが・・・
 
ようするに、私はボクシングのラッキーパンチ、棚から牡丹餅を過剰に信奉しようとしているわけですね。
「ママ!煙突がないからサンタさんお家に入れないよ!」
とサンタさんを信じているお子さんのように。
「いつか、白馬の王子様が私をさらって行ってくれる!」
というOLさんのように。
これじゃ~議論の余地がなくなってしまいますけど・・・
だいさんに付け入る隙がないのでいたしかたなし。
 
努力した方が早いですかね・・・
こんな感じで、クリスマスを前にして「モテない人のモテ期」を頑張って考えている寂しい私がいるのでした。

君の論の後半部分に全てが集約されているように思う。
つまりだ。サンタさんは全ての子供に平等に来るわけではない。
子供の頃に皆教えられたはずだ。
「良い子にしてればサンタさんが来るよ」と。
白馬の王子様はどんな女性にも平等に訪れるわけではない。
シンデレラの義姉たちのような悪女にそんなもんが来るなんてのは誰も思わないわけで、純潔を守り、清く正しく過ごした女性にこそ訪れるのだ。
 
ということを元に考えれば、何かを待ち望むということは、イコールそれに見合うための自己維持とセットでなくてはいけない。
「モテ期」を待望するのであれば、「モテ期」が訪れるための条件を自分が満たすような努力は欠くべからざるものなのだ。
 
もっとも、君の言うように、「モテ期」という言葉自体が、その人によって基準が上下するのは認める。
受け取り方は、その人それぞれの定義に照らすべきなのだろう。
 
しかし!
 
では、「モテ期」は必ず一度(三度説有)訪れるという風説(都市伝説)は、それぞれの基準にそれぞれが合わせて良いのかというと、論証学的にいうとそれは違う。
つまり、その風説が形成された段階で、ある一定数のサンプルがあったと予想されるわけで、そのサンプル全てが持つ基準を定義上の基準として固定しなければ、「モテ期」は一度は訪れるということの論証ができなくなってしまう。
つまり、もしこの説がモテ組の中だけで形成されたとすれば、それは彼らの基準によって形成された説であって、彼らの基準の「モテ期」が彼らサンプル全体に起こったことが確認されたとしても、それは我々モテない組に我々の基準の「モテ期」が来るということを証明するものでは無いからだ。
となると、その基準を各自の基準に変動させて考えることはできないということになり、その風説自体が無意味なものに姿を変えてしまう。
 
っていうか、モテ組とモテない組の境界なんて案外行ったり来たりなもんなので、こんなことを考えてるより、おそらく少し努力したほうがずっと早い。
世の女のコたちに迎合しろって言ってるわけではなく(最低限は必要ではあるが)、
前回も書いたように、自分の道突き進んでりゃ、気付きゃモテ組に入ってたりすることもある。
そんな「自分のための努力」が、実は「モテ期」が訪れるための条件の最大のトコだったりするのかもしれないし。
結果を求めてどうこう、じゃなくて、過程の充実が一番の結果を生み出す。
それはどんなことでも変わらないから。


Categories: 考える。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo