カテゴリーアーカイブ: 考える。

止揚。

February 10 2005 18:45

何をするにだって、自分の価値観だけで物事を決めるってのはどうかと思うのよ。
自分の価値観云々ってのが悪いとかそーゆーこと言ってんじゃなくて、自分の視野で見えることなんて見落としがあるかもしれないんだし、それだけが正しいと思って行動するのなんて間違いの元だ。
結局はアウフヘーベン。いろんな価値観をどんどん受容しながら、自分の価値観を後押しするも良し、補足するも良し、修正するも良し。
他人の意見に流されて自分の価値観を見失うのは問題外だが、他人の視点を全く気にせず、自分の価値観だけに拘泥するのも無意味だ。
それは自分の持っているその価値観を正しいものと信じて行動しているのではなくて、「他人と違ったことをしている自分に酔っているだけ」だ。
いろんな価値観を取り入れて、そのうえで最上のものを作り選んでいく作業を経ない限り、それはどこまでも独善の域を出ない。
逆に言えば、様々な価値観を受容しながら、それらのいいトコ取りで最上のものを選択して行動するのであれば、例えそれが他人の価値観と大きく違うものであっても、すでにそれは独善ではない。
その差がわからなければ、そこにはアウフヘーベンが存し得ないわけだし、
そうであれば、そこに人間としての成長は無く、本当の意味で自分らしい生き方なぞ出来るわけもないのだ。
自分オリジナルなベクトルってのはそんなもんだ。
それをはき違えては、いけない。



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熾火。

December 26 2004 00:08

愛読書の一つに挙げながらすでに5年くらいは御無沙汰していた銀色夏生先生のフェバリット3冊を久々に読む。

んで、思ったこと。
やっぱ俺の原点はここにあるのかなぁ。
文体とか、間のとり方とか、そういうのが有意識・無意識に俺に強い影響を与えてることを実感。
思えば、自己内精神世界浮遊も、銀色先生を読んでから始まった気がするし。
ってことは中学生の頃からこんなだったのかよ俺(萎)
 
それはさておき、どぅも脳内世界アステロイドに立ち向かえてなかったような気がするここ10日くらいの迷いも、少しは晴れた気がする。
原点回帰。
自分に内在する様々な哲学を、もっと自己満足的に撒き散らすことが再びできるきっかけになったかも。
初心忘るるべからず。



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考察。

December 21 2004 02:15

女のコと話すのが苦手なんですよ。
まぁ1対1ならそこそこ如才なくこなすんですけれども、対グループとなるともうダメ。
合コンとか、あとサークルに入ってきた新入生グループとか、もぅお手上げ。
この理由を考えてみたわけですよ。
それは結局ね、対人関係における自己の柔軟さが原因なのではないかと思った次第で。
 
つまり、俺はまぁ、わりと引き出しの多いほうだと思うんで、
相手の性格に合わせて無意識的に自分のモードを切り替えてしまうわけですよ。
大人しいコには大人しい感じで、
よく喋るコにはよくつっこんでみたり、
破天荒な言動のコには、こっちもそういうモードで対応します。
これが意識的にではなく、無意識のうちにスイッチが入ってしまう感じなわけで。
だからまぁ、一人一人にはわりとノリが合ったりね、
普通に会話も弾んだりするんですけども(どうしても引き出しに無いタイプのコもいるけども)、
グループになってしまうと、ほら、それぞれ違うキャラのコがいるわけで、
どーも俺の脳内スイッチが、どっち切り替えればいーの?ってな具合にパニックモードになるのではないかと。
もぅ何もできなくなり沈黙。
そんなメカニズムが働いてる気がしますね。振り返ってみるに。
 
こういうキャラ!ってキャラ立ち一本で行ける人はいいですよね。どんな場面でも揺らぐことの無い自分でいればいいわけで。
まぁ切り替えるにしても、意識的にできるんであれば、それほど困らないと思うわけですよ。とりあえず意識的にどれかのモードになっちまえばいいんですから。
それが、もう。俺なんて自分内右往左往。
 
そのへんは、対人関係というものにもともと自信を持っていないことだったり、
中途半端に柔軟だったりするのが結局こんな結果を導いてるんだとは思いますけども。
でもそれは現時点ではどーしよーもない。精進せねば。
 
大和撫子七変化。
俺だって七変化。



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等価交換。

December 18 2004 19:38

理論武装しようとしていろいろ考えてみた。
でも答えが出なかった。
ただ一つわかったのは「信頼感」という言葉と、「友情(異性間の)」や「愛情」という言葉は、
それは基本的に相互置換可能な位置にあるのだということ。



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某月某日の某頁の某文章への一筆。

December 12 2004 22:49

まずはっきりさせておきますと、
俺は基本的に貴方のことを尊敬してるわけですよ。
貴方自身は自己嫌悪だったり自己卑下だったり、様々あるだろうけど、
その価値観だったり、物事への視点だったり、
俺にとっては(世の他の人にはどうかは知らないが)、少なくともそれは好感を感じるものなわけで。
 
そういう存在だからこそ、一友人として言わせてもらうならば、
その内容は間違ってると思う。
その考え方を否定しているわけではなくて(むしろその考え方は全面的に肯定)、
俺が言いたいのは、
そこまで理解した上で、そのような「男」に構っていてはいけないのではないか、ということ。
まぁ、人間関係のいろいろなしがらみもあるだろうから、俺にはわからない部分もあるけど、
朱に交われば何とやら、やはりそんなくだらない物にかかずらっていていてはいけないと思うわけですよ。
そんなことで自分を貶めていてはいけない、とそう思うわけですよ。
 
断っておきたいのは、それだけの関係そのものを否定してるわけじゃなくてね。
それはそれでアリだと思うわけよ。
ただしそこにお互いを大事に思える「愛情のようなもの」が絶対不可欠だと思うのね。
やっぱいろいろな都合で、ちゃんと正式にOne to Oneの恋人としてはいられない環境も世にはあるだろうし、いろいろな関係があるだろうけれども、
でもやっぱそれは何らかの建設的な意味が無ければ、それは「自分」を無駄に浪費しているだけにしか思えないのさ。
友人だろうと他人だろうと、
そこにお互いを尊重し、信頼できる感情があるならばそうなっても全然いいと思うけど、
それが無いならば、やはりそれは疑問なわけで。
 
やはり尊敬できる友人として、大事な存在だからこそそうあってほしくないのよ。
まぁつまりは俺の身勝手なんだけど。
俺がどうこう言ってどうなるわけでもないけど、
やっぱりそこはほら。友人だから。他人事じゃないから。
友人というものをどんなものと捉えるかは人それぞれだろうし、
俺には俺の、貴方には貴方の考え方があるわけでさ。
でもこういうのが俺のスタンスだから。思ったことは言うってね。
だから、まぁこんな考え方もあるってことだけ頭に留めといてくれりゃ、後は聞き流してくれて良し。
 
たださ、余計なお節介ではあるかもしれないけど、軽い気持ちで言ってるわけじゃねーから、マジで。
まぁ頑固親爺のたわごとですよ。



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光露。

November 17 2004 18:33

書き殴る、という言葉が、まさに字面の如く「殴る」という言葉を語源としているのであれば、それはまさに俺のしていることそのものを表しているわけで。
 
だってさ、感情のまま、理性も知性もルーティングしないで勢いで書きつけてるのは、
まさに殴るという行為の本質と同位のものではないかと思ったりするし。
ただ、俺の価値観としては、感情だけの文章というのは、文筆のありかたとしては失格なのではないかというのがあって。
そういう意味では、俺の文章なんつーものは、俺からとってみりゃぁ、書き散らしただけの駄文で。とても刮目して見るには耐えがたいものだとしか言いようが無く。
とはいえ、この羞悪に堪えない行為こそが、俺の精神の均衡を保つ最大の手段であることも事実で。
言いたいことを表現させてくれない社会のシステムの中で、犯罪に当たらない方法で感情を発露できるメソッド。
 
それは世間へのストラグルであったり、
周囲への罵倒であったり、
安易に近付かないほうがいいですよ、という警告であり、
無力でチープで愚かな自分へのシャハーダ。
 
そんなコンプレックスだらけのオマージュ。



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絶望来たりなば。

September 19 2004 23:33

人生に絶望やら失望やらすることが無い。
絶望するには、絶望に繋がる論理が必要になるわけだが、
俺にはそこまで考える頭脳も気力も無い。
俺は馬鹿だから「まっ、何でもいいか!」と結局なっちまうわけで。
 
絶望は死に至る病であると言った男。
しかし、絶望は同時に希望への第一歩でもあり、
絶望が無い人生には希望への本当の渇望も生まれないわけで。
そう考えれば、絶望も希望も表裏一体。
ある意味で、絶望しないことのほうが、死に至る病なのかもしれぬ。
 
俺もたまには絶望しないと。
でも何に絶望すればいいのかわからん。
そりゃぁ人生うまくいかないことばっかではあるが、
そんなの当たり前すぎていちいち絶望する気にもならんし。
女にフラれようが、交通違反で捕まろうが、
それで自分が成長するなら得じゃん。費用もかからんし。
 
う~、何に絶望すればいいのか教えてくれキルケゴール。



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ノンバーバルは、いくつも。

March 10 2004 16:49

最近、某嬢(敢えて匿名)の日記が非常に赤裸々感があって良い。
普段の言動にそんな感じがない人の赤裸々発言ほど身に染みるものはない。
と言えると思うがどうだろうか?
 
 
前に何かのニュースで見たが、現代の人間関係のコミュニケーションのほとんどが、メールによって行われているという。
まぁわかりやすく言ってみれば、実際に会って云々というよりもメールで関係を保ってるということになるだろうが。
驚くのは、直接話すよりも、メールのほうが本音が言えるということだ。
俺なんかは逆にメールってもんがものすごく苦手で、何をどう書いてよいやらわからんもどかしさというか、思ったことをそのまま書けないむずがゆさなんぞを感じてしまうわけだが、こんな俺はもしかして現代人失格なのだろうか。
でもやっぱ、コミュニケーションってのは直接やり取りしたいわけよ。
やっぱ人間と人間ってのは言葉だけが相手を知る手段じゃないわけで。
目だとか表情だとか仕種だとか声色だとか。そういうものを複合することによって、より深く相手とわかり合えると思うんだが。
言葉っていう上っ面だけじゃ何も見えてこない気がするのは、俺がそういう能力に欠けているからなのか、現代社会が奥行きを求めていないからなのかは、わからないけどな。



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社会的文化論。

February 13 2004 23:04

Ravineのほうで私的音楽論なんつーのを書いて、リスナー層の2極分化なんぞを論じてみたわけだが、いろいろな書物なんぞを読んでみたりするに、これはこと音楽の問題に限らず、俺らの世代全体が抱える精神的・文化的偏向に思えてきたので記す。
 
要するに、我々の少し上の世代から今の中高生(場合によっては高校生も)に至るまで、この2極分化はいっそう進む傾向にあるように思えるわけだが、これは、団塊世代に対する、その下の世代のアンチテーゼであると読み解くことができるわけだ。
つまり、画一化、大衆化、ヒエラルキー内上昇の志向という良くも悪くも現在の社会における「一般的優良モデル」たる文化的傾向と、そのモデルから離脱した、悪く言えば「落ちこぼれた」、良く言えば「個であろうとした」文化的傾向の両極との対立である。
つまりは、社会常識から「こうであれ」として普遍的人生の枠に押し込まれるシステムの中で、自我を持ちすぎていた人間が、普遍的な没個性であることに自己を見出せないがゆえに、社会常識の制定主体である団塊世代及びそのフォロワーたちとの差違を、「高度に精神的な文化」を持つことで見出そうとしたと言えるだろう。
ここに見られるのは、団塊世代フォロワーたちの「広汎で画一的な文化」とそれに対抗する「専門的で個性的な文化」との分化であって、それは同時に、商業主義と精神主義との対立とも言えるのである。
しかし、この構図は世代が下になるにつれてさらなる分岐化を進めていて、後者の中で前者に収斂される層が出現してきている観がある。
つまりは、大衆との差違の先に「個」に行き着くのではなく、差違を求めた点でストップしてしまったがゆえに、マスとして提示された、「一見サブカルチャー的」なイメージ文化に取り込まれたのだ。
例えば、大衆文化・画一文化からの離脱を目標としながら、大衆文化・画一文化の形成主体であるTVなどの広範囲マスメディアをその情報ソースとして使用するがゆえに、疑似的差違という大衆文化に逆に回帰するのである。
これらの分化がどこに起因するのかというと、結局は情報というものを能動的にキャッチするか受動的にキャッチするかの差であって、時代が新しくなりその方法が多様化するにつれて、能動的であるか受動的であるかの距離というのは格段に拡大しつつある。そこで生み出された文化分岐が現代の文化に相容れない2つのマスを形成していると思えるのだ。



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神託スERROR。

December 08 2003 13:38

最近、車椅子に乗る夢をよく見る。
なんか、その夢の中の俺は、軽く足を動かすと激痛が走って麻痺してダメらしい。
そんで車椅子に乗ってるんだけど、これがまたなんともサミシイ感じの夢で。
 
夢を心理学と絡めたのって誰だっけ。フロイトだっけか。
なんか、それ以来夢ってものは心理学的、医学的に解明できるもんだって考えられてるけど、それはどうなんだ。あまりにも人間万能主義・進歩的歴史観に縛られすぎちゃいないか。特にそれはヨーロッパの自然科学学問の流れを踏襲している、理系学問の人間に多い気もするし。
 
きっと俺の見た夢には俺が見た理由なんてものが深遠なる理のもとに存在して。
それはきっと何か深い意味のあることで。
袖擦り合うも他生の縁。人間の日常の細かい一つ一つの事象には全てに何らかの理由がある。
それがどんな結果を招くものなのかは誰にもわからないけど、だからこそ目を逸らすことなく、全てのコトを大事にする必要があるだろうし。
 
吉兆にしろ凶兆にしろ、この夢は俺の何かが受け取った信号。
これを大事に。
そんなちょっとしたことかもしれないけど。



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