社会的文化論。

February 13 2004 23:04

Ravineのほうで私的音楽論なんつーのを書いて、リスナー層の2極分化なんぞを論じてみたわけだが、いろいろな書物なんぞを読んでみたりするに、これはこと音楽の問題に限らず、俺らの世代全体が抱える精神的・文化的偏向に思えてきたので記す。
 
要するに、我々の少し上の世代から今の中高生(場合によっては高校生も)に至るまで、この2極分化はいっそう進む傾向にあるように思えるわけだが、これは、団塊世代に対する、その下の世代のアンチテーゼであると読み解くことができるわけだ。
つまり、画一化、大衆化、ヒエラルキー内上昇の志向という良くも悪くも現在の社会における「一般的優良モデル」たる文化的傾向と、そのモデルから離脱した、悪く言えば「落ちこぼれた」、良く言えば「個であろうとした」文化的傾向の両極との対立である。
つまりは、社会常識から「こうであれ」として普遍的人生の枠に押し込まれるシステムの中で、自我を持ちすぎていた人間が、普遍的な没個性であることに自己を見出せないがゆえに、社会常識の制定主体である団塊世代及びそのフォロワーたちとの差違を、「高度に精神的な文化」を持つことで見出そうとしたと言えるだろう。
ここに見られるのは、団塊世代フォロワーたちの「広汎で画一的な文化」とそれに対抗する「専門的で個性的な文化」との分化であって、それは同時に、商業主義と精神主義との対立とも言えるのである。
しかし、この構図は世代が下になるにつれてさらなる分岐化を進めていて、後者の中で前者に収斂される層が出現してきている観がある。
つまりは、大衆との差違の先に「個」に行き着くのではなく、差違を求めた点でストップしてしまったがゆえに、マスとして提示された、「一見サブカルチャー的」なイメージ文化に取り込まれたのだ。
例えば、大衆文化・画一文化からの離脱を目標としながら、大衆文化・画一文化の形成主体であるTVなどの広範囲マスメディアをその情報ソースとして使用するがゆえに、疑似的差違という大衆文化に逆に回帰するのである。
これらの分化がどこに起因するのかというと、結局は情報というものを能動的にキャッチするか受動的にキャッチするかの差であって、時代が新しくなりその方法が多様化するにつれて、能動的であるか受動的であるかの距離というのは格段に拡大しつつある。そこで生み出された文化分岐が現代の文化に相容れない2つのマスを形成していると思えるのだ。


Categories: 考える。

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