カテゴリーアーカイブ: トンガリ。

シャセリオーの色合いをどう感じるかという個人的な問題。

December 16 2004 22:11

うまく行ってるように見える時。
うまく行ってないように見える時。
でもその裏にはまた別の部分もあったりして。
なんだかわけわかんねーけど、
でもまあいいか。
ダメだったらダメ。
そうじゃなかったらそうじゃないんだし。
境界線上のアリア。
 
んで、
占いにすがってみる。
それは当たるか当たらないかじゃなくて、
自分が一歩踏み出す勇気の手助けになってくれりゃぁいい。
当たれば俺が頑張ったから。
外れりゃぁ、俺の力が足りなかったから。
そう割り切ってるから、平気。
他人に人生決められる程、俺は主体性を失ってるわけじゃないから。
 
世の男性女性諸君へ告ぐ。
悩んでる時こそ、悩むな。



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標なき闇。

December 09 2004 19:52

結局、人は圧倒的な孤独の中に放り込まれているわけで。
この世に他人が多く存在し、その大勢の他人とのアクセスが容易であるがゆえに、その限界の無い孤独感はより一層増幅されて。
 
孤独の原因は孤独には無い。
孤独の原因は、他者とのコミュニケイトの中に在る。
それは所詮自分の中で生み出された錯覚でもあるし、同時に自分の中の所産であるからこその真実でもある。
 
何も依るべき処の無い焦燥感は、そこに何らかの外的要因を要求しているからこそ、それが充足しない場合に於いて、孤独という社会内位置に自らをロケイトする。
或る一つの焦燥は、程度の差こそあれ、いくつもの依存ベクトルを持っているわけだが、それの全てが拒否された状況にあるのが、俺の今の果てしない孤独感の源泉だ。
それは理論としては理解できるが、感情としては理解できない。
そこに俺では解けない問題がある。
 
 
全てのリレーションよ崩壊せよ。
今あるのは、自己の存在への絶対的な確信と、拭い難い不信。



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人間関係という非道く重大な自分内環境について。

November 30 2004 23:04

一般的な意味に於ける人間関係の構築というのは、結局は他者とのコミュニケーションというものの中で、いかに相互的な共通理解的価値観を摺り合わせていけるかだと思うわけですよ。つまり、そこには相手との絶対的な「常識範囲」の共有というか、価値観のものさしの画一化によってされる相互評価こそが、通常の人間関係だと思うわけで。
ところが、俺はどうしてもこういう形の人間関係が構築できないわけです。というのも「こういう場面ではこういう対応をすべき」とか「こういうことを言うと面白い」とか、「こういうものはこう評価すべき」とか、そういう共通価値観が、どうも他人と共有できないんですよ。俺の中の価値観が他の人と噛み合わないというか。
いや、もっとも、他人との価値観のズレってのは大なり小なり、誰もが抱えているとは思うんですけどね。でもそれをメディアやら何やらからの外部情報によって自分の価値観ってのを補正していくわけじゃないですか。で、そうやってそれぞれの価値観ってのが「常識」の枠の中に収束していって、話題やら評価基準やらなんやらの共通化が行われるわけだと思うんですよね。
でもどうやら俺にはこういう能力が欠如しているようなんですよ。人間関係構築能力の欠如とでも言うんでしょうか。何故か、自分の価値観を補正することができない、というか、そういう欲求がまるで芽生えてこないんですね。あくまでも自分の行動は自分内部の行動規範によってのみ意志決定されるんです。それが他人の常識の枠から外れていようがいまいが、関係ないんです。そういう意味では、俺は現代の一個の社会人としては不適応者なのかもしれません。
要するに、他人の評価ってのを全く気にしないんですよ。結局は「こういう考え方をしないとみんなと合わない」とか「こういうことを言うとつまらないと思われる」とか「こういう風だと嫌われる」とかそういうことから価値観の補正の必要ってのが出てくるんだとは思いますが、正直、どうでもいいとしか思えないんです。だって、別に嫌われようがどう思われようがいいわけじゃないですか。全ての人がそうなわけじゃありませんし。周囲には、ごく少数とはいえ、俺のこの価値観を理解してくれる人もいますから、別にそれでいいんです。全ての人と恙無くやっていくことが立派とも思いませんし。実際、「変なやつ」「付き合いにくいなぁ」とは思われてると思いますが、周囲の人々と人間関係をやっていくうえで、別段これといってトラブルはないわけですよ。最低限それなりの対応はできますから。
 
ところが、こと恋愛関係になってしまうとそうはいかないわけですよ。だって、恋愛関係ってのはどうしても相手からの評価ってのを必要とするわけで、そのためにどうしても相手に合わせる場面ってのが出てくるわけじゃないですか。それは要するに自分の行動基準に無い行動を取るということですよね。その結果として、自分のとっている行動が正しい行動なのかどうかの規準をどこに置いていいかがわからなくなって、右往左往してしまうわけですよ。もともと、一般的な共通理解的価値観を有している人であれば、その規準に従って行動すればさほど問題無いわけですけれども、俺の如き有していない人間にとっては、それこそ場当たり的というか、一挙手一投足が苦悩の連続です。
例えばメール一つとっても、「こういうことを書くと嫌がられるんじゃないか」「この文面はもぅ嫌がられているということだろうか」「この顔文字を使うとおかしいだろうか」etc…。最終的にはもぅ何が何だかわからなくなるわけで。
モテる男性でしたら「俺についてこれる奴だけついて来いやー」なんてできるんでしょうけども、残念ながらモテる男性の部類には入りそうもありませんもので、やっぱどうしても相手本位になってしまうのですよ。そして辿り着くところが、自己嫌悪や焦燥感。精神の疲労困憊。
 
だから人を好きになるのは嫌いなんです。自分が自分でいることこそが心の平穏と思ってる人間にとって、自分を自分で無くしてしまう悪魔のような存在なのですよ。でもどうして古来よりいくつもの物語に描かれているように、悪魔というものは甘美な誘惑で近付いてくるのでしょう。何度も何度も騙されて、苦しい思いをしてわかっているはずなのに、避けられないのは何故なんでしょうか。
嫌なんですよ本当に。俺に近付かないでください。できないことはわかりきっているんですから。向いていないことまで平気でやり遂げるほどのキャパシティは持っていないんですよね、残念ながら。そんな痛みをはね除けるだけの心の強さは持っていないんです。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。



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いつかのコドナ。

November 19 2004 23:50

今年は身近な失恋関係のトラブルが多々あって。
ごく近しい人の悲しい顔を見るのは、そりゃまぁ辛いもんです。
 
振り返って自分を見るに、
どうも今はそんなだけのパワーが無いというか、何と言うか。
色恋沙汰に割くだけのキャパシティが今の自分の中にはほとんど存在しないわけで。
どっちかってーと、そういうモードに入っちまうと盲目というか、
大事にしたい欲が強すぎて前後不覚になるタイプなんで、
これはこれでいいかな、とも思うし。
 
人が好きだのどーのってのは、自分の認識以上にエナジーを消費してしまうもので、
それが尽きてカラータイマーが鳴っているのかな、と自分では納得してるけど。
今はあまりそこに真剣にのめりこむことはできないし、する気にもならない。
軽い気持ちで、ってのはやぶさかでもないけど、そんな状況にあるわけでもないし。
そんなことを思いながら、周囲の狂騒を微笑ましく見ています。
 
 
日々の生活が忙しいせいなのか、齢を重ねたせいなのかはわからないけど、パワー減少中。
でもその自分に残されたキャパは、自分の人生にリンクする場所に大事に使うの。
 
それで満足しちゃう自分は、大人なのか、子供なのか、どっち。



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不安定なアイデンティティ。

August 07 2004 10:08

思ってるより強かったり、思ってるより弱かったり。
そりゃぁまぁ、人それぞれいろいろある。
それは自分自身の認識だったり、第三者からの認識だったり、アングルによって生まれるズレだって、結局は自己を肯定も否定もしない。
視覚だって聴覚だって触覚だって結局は自分の経験則のフィルターを通すことにより何らかのバイアスがかかってるわけで。
でも結局はどこかに自分の中の標準を作って、それに沿って全てを把握するしかない。
それは決して正しくもないし、
それは決して間違ってもいない。
 
そんな不安定なアイデンティティ。揺らぐぜ。



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非活性な精神世界の軌跡。

June 22 2004 21:10

ふと気付いたのは、この日記もどき(謎)も書き始めてからもう5年半にもなるんだよなぁ。という事実。
すげぇよなぁ。5年半だぜ5年半。
中学校入り立てのガキンチョが大学受験の勉強を始めようかという時期まで行っちゃう年数だぜオイ。
忙しかったりHDDが飛んだり(死笑)で長らく休止した時期もあったとはいえ、無精な俺がそれなりに続けて来れたのも、たまにカキコなんぞしてくれたネット友のおかげとしか言えないわけで。ありがたや(拝)
 
移り変わりの激しいネット界にあって、いろいろリニュだったり移転だったりしながらも、このコンテンツだけは執拗に持ちこたえたり何だったり(笑)
いろんな人の書いてる日記なんかにインスピレーションを貰いながら、俺の中の躁だったり鬱だったり喜怒哀楽だったりをまんまぶつけてきたわけだが、思うのは、当初からどうも俺の文章ってのは成長してないな、と(笑)
文体なんかは変わってはいるけど、文才に関しては全く成長見られず(倒)
周囲の方々の文才ある文章を見るにつけ、そのへんは反省したりもしてるんだが、風の吹くまま、気の赴くままにキーを叩いてる状況じゃぁ、なんも変わりっこねえぇやぁ(諦)
 
もっとも、細々と、その代わり、好き勝手書いてるのが俺の性に合ってるっちゃぁ、まぁその通りなので、それはそれでいいのかな、とも思うし。
こんな漫然・散漫・冗長・怠惰な文章を垂れ流し続けてるほめぱげなんて他に無いだろうし、そういう意味では俺のオリジナルなもんなのかもしれないしさ(笑)
 
こんなんだけど、まだまだ続いてくんだよなぁ。と、ちょっと不思議な感覚。
俺の精神世界が存在する限り続いてく道。



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6月の告白。

June 18 2004 00:58

基本的に俺は社交的なほうじゃないんで、わりと家から出るのが嫌いだったりする。できることなら札幌駅や大通なんて行きたくないし。でもたまに無性に人に会いたくなったりして。でもその対象となる人ってのは、その時々の俺の中にある何かとパルスが共振できる人というか。誰でもいいわけじゃなくて。何かが何かは自分でもよくわからないけど。
自分が自分でいられる場所ってのが世の中には意外と少なかったりして、んで、自分の維持のために人は一人でいることを求めることがあるんだろうけど、俺はどうやら自分欲求が強すぎるようで。でも結局は自分が自分であることの確認のために他者も必要なわけで。そのへんのバランスが難しい。
人によって、そのバランスファンクションが、遊びであったり、恋であったり、いろいろあって。俺にとっては音楽で。
孤独とか、孤独じゃないとか、一人だからとか、一人じゃないからとか。そんなんじゃなくて、もっと深いトコにある何かが、大事なんだと思うから。



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わたしは、とても、わかりやすいやつ。

March 07 2004 22:47

結局のとこ、
俺は誰とも相容れないくらい俺なわけで。
どーしょぅもない自己嫌悪とか現実逃避とか、不信感とか。
そんな数多あるファクターの中から俺が最終的に選び出すものはいつも一緒。
それが何かは自分ではわからないような、自分だけがわかるような。
まずは右足を出したら、次は左足って。
そんな当たり前なことが、俺自身を釜の底から救い出す唯一の手段だったり。
わかんないことは辛いけど、わからないから楽しい。
何だって、そんなもんじゃないの。



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オプティマム。

February 29 2004 23:48

前に読んだ中島薫の自己啓発本のトピック。
「うまくいかなかったらどうしよう、ではなく、うまくいったらどうしよう、と考えてみる。」
…俺の人生そのまんまじゃんか。
I’mすーぱーおぷてぃみすと。いぇい。



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