カテゴリーアーカイブ: 考える。

33サイクル目の俺内完結世界マター。

September 13 2005 23:43

俺を悩ます日常のいろんな事なんて、結局はプラスとマイナスの無限ループ。
そん中でしょーもないデリバレーションの生み出すものを信じたり、信じなかったり。
足が竦んだり、震え上がったり、そんな時に、
知ったことかー!なんて思い切りがアウフヘーベンだったりもするし。
 
情けねー俺の弱っちぃ心が繰り返す躁鬱と希望と絶望とは、
所詮は長いスパンの中では笑っちまうくらいのみみっちいターム。
そうやって放り込まれた精神のカリ・ユガで、
自分を見失ったり、
悪意を持ったり、
憎悪に凭り掛かってみたり、
そんなことばっか。
んでしまいにゃ、
もぅいいや!
なんつって開き直って一から始まるクリタ・ユガ期。
そしたらまた目なんて輝かせちゃったりして、前向いて、やるぞ~!なんて。
 
人生なんてそんなもん。
だから、恐れずに行こう。
どんな失敗や、挫折や、そんなもんも、
精神のエンドレスのサイクルの中で、結局は元に戻る。
いちいち細かいこと気にしてるよりは、思い切って上へ。
へこんだり、
悲観したり、
そんなもんは一過性のもの。



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コミュニティとしての所在を考えながら。

August 19 2005 23:58

結局はそこに描くのはどういうイメージなのかが問題で。
両足だろうと、両目だろうと、
そこにアプローチする存在の希薄さは痛感するという不毛なオプティミズムは、
誰にも最悪の姿に見えるから。
でも、明後日の生活と一昨日の生活のリンクを図るという一見無意味な作業は、
その中に底流として流れる自分内正当化メソッドにおいて数多くの示唆を与えるわけで、
それが最終的な部分の自己本位の在り方に直結するのかもしれないし。
言ってみれば、見えない先にある自我の到達点の一部を想像することという、 答えの見えない、
それでいて自分という人間の一個別化を意識した瞬間から意識下に存在する、
そんな如何ともし難い厄介な代物を抱え込む愛しさとか、悦びとか、そういうもの。
知ったこっちゃないって言やそうなんだし、
そこに関してエゴを発動してどうこうも無い。
とは言え、意味有る他者が 社会的結合という各自の頭の中に作りあげた鎖の中にしか存在し得ないのと同様、
意味有る自己なんてのも、自分の作り出した偶像の中にしか存在し得ないわけで、
そんなことにいちいち何か論理的帰結を要求したところで、何が変わるわけでもないから。
外部のどんな事象とも関係性を持たない、
また同時に、どんな事象とも関係を持ちうる、
そんな意味の無い衝動や、感動や、パッションといった、そういうのを見出していきたい。
 
その結果として得られる失敗や成功やナンタラカンタラは、
かけがえのない明日や明後日やそん次の姿。



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人間と人間のこと。

August 18 2005 22:49

結局、相手が何を考えてるかなんて、自分の経験則からの予測でしかなく。
でもさ、その経験則なんてのは、
いくら人から聞いたものや、本やらで読んだ疑似経験を含むとしても、
それでもやはりとんでもなく有限なわけで、
そこから導き出される予測なんて、全くアテになんかなるわけもない。
そんな中でも、自分の予測に身をあずけることができればいいんだけど、
何だかんだ理由つけて疑心暗鬼。
楽天だの悲観だの、自分勝手に使いわけてさ、
卑下してヒロイズム満たしてみたり何だったり。
何でもない些細なことに過敏に反応して、
躁鬱繰り返して右往左往。
 
前を向いてじっくり腰を据えて一歩一歩。
そんな俺のスタンスの中で、
なんだかんだで俺をすり減らしていくもの。
でも、泣いて喚いて、んで期待したり失望したりしながら、
それでも進んでくっきゃない。



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存在証明。

August 17 2005 01:09

ごく身近な某人の、某場所における、某カキコに対する諸提言。
 
欲しくてしょーがないなら、それでいーじゃん。
それを、わかったような口振りでさ、簡単に「諦めるー」なんて、
何だよそれ。
何かを得ようと思った時に、
何もかもが順風満帆に行くことなんてあるわけないんだからさ、
欲しいなら力尽くでも手に入れりゃいーんじゃないの?
 
結局、自分が傷つくのが怖くて、そういうポーズ取って、
「これが私の主義なんですー」なんつって、
楽ーな逃げ道作ってるだけじゃん。
人を傷つけるのが嫌だからー、なんて、そういう問題じゃないんじゃないの?
結局はそういうものわかりのいい、
「平和主義な私ぃ♪」
って気分に酔ってるだけだって、まだ気付いてないの?
 
人生だって、恋愛だって何だって、
自分の気持ち優先すりゃ、絶対にどこかで傷つく人が出てくるのはしょーがないわけで。
だってそうでしょ、自由競争の中で、席が限られてる以上はそれは絶対に避けられないことなんだし。
そんなのに配慮して、チャンスを目の前にして「どーしよ」なんて言ってるうちに、誰かにかっさらわれちまうわけでさ。
そんなんどっから見ても一緒だから。
お前が拾わなきゃ他の誰かが拾うし、
他の誰かから見りゃ、お前だって「他の誰か」なんだよ。
 
中途半端に「かわいそー」なんて、自分を正当化したい欲にかられてりゃ、
「しめしめ」なんつって、虎視眈々と狙ってた奴が出てきて、
今度はお前が傷つく番さ。
そんなことやってるうちにさ、
背伸びも何もしなくても手に入るとこだけに妥協しちゃって、
んで、
「こんなはずじゃなかった」なんて。
 
いい加減、
「わたしダメだから仕方ないのー」
なんてヒロイズム捨ててさ、
目の色変えて強引にでもやってみ。
誰かを傷つけたくないならお前が傷つくし、
お前が幸せになりたいなら、
いーじゃん、その結果なんてさ。
 
んで、自分が最高に幸せになってから、
その幸せをみんなに還元していけばいーのさ。
自分が幸せじゃない人間が誰かを幸せにできるなんて考え、大間違いだ。
自分が幸せだからこそ、他人を幸せに出来る。
じゃあ、まず第一歩はどこを目指せばいいかわかるはず。
 
余計な社会性や理屈なんて捨てちまって、衝動で。



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変われないぼくら。

August 11 2005 21:29

やっぱり。
いろんな人のいろんな状況を見てきて、薄々感づいてはいたんだけどさ、
男にとっては、最初に本気で好きになったコってのが、
なんだかんだで結局は、価値観の基本なのかな。
 
そりゃぁ人間なんだから、歳を経るにつれ、
いろんな経験もし、
新しい考え方だって身に付くし、
価値観だって少しずつ変わっていったりもするけど。
けどでも、その中にあって変わらないもの。
何故だろう。不思議なのだけれど。
 
別に似たものを求めてるわけじゃないし、
比較したりするわけでもないけれど、
でもやっぱ無意識でどこか共通する所のあるコを求めてたりして。
幼児の頭蓋骨のように、
まだ価値観が固定されていない時に受けた衝撃で形成された形状ということなのか。
難しいけど。でも。
 
きっとそれは変わらないのだと思う。
そして、変わる必要も無いのだと思う。
失敗を繰り返さないようにしよう。
そんな風に自分が変わったのなら、それでいいじゃないか。
きっとこれからも、好きになるコは、やっぱりああいうコなんだろうなぁと。
心から、思う。



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天秤で量れるものは、重さのあるものだけ。

August 04 2005 20:50

他人の幸せと自分の幸せが、相反する条件である場合での行動規範をどう考えるかという件について。
 
それが相反する条件の下に成り立つ場合、どちらかを優先せざるを得ないわけで。
相手を優先するか、自分を優先するか、
そこの選択が問われるのっぴきならない立場に追い込まれるわけだ。
そして、俺は、
恥ずかしながら、多くの場合相手の幸せを望むという選択をすることができない。
 
完全に相反する条件でなければ、相手の幸せがとても嬉しい気持ちになるものなのだけれども、
完全に相反する条件であれば、それはイコール自分の不幸に繋がるわけで、それを受け入れることができるほどまだ大人になれてなかったりする。
とはいえ、自分を優先してしまうと、相手の悲しむ顔に必然的に曝されるわけで、それはそれで非常に心苦しいものもあり。
でもそれは仕方の無いことで、それを否定するのは必然だと思うし、
といえ、それを無批判的に肯定するのは偽悪だと思う。
 
その辺りをどう考えるか、バランスの未だに取れていない俺は、まだまだ浮ついたスタンス。
自分のことすらわからない自分の、精一杯の抵抗をできるだろうか。
するしかない。



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この道を行け。

July 03 2005 18:48

道路の名前。
車を運転するようになって早や5年になんなんとしているが、
例えば
「東北通沿いの~」
「羊ヶ丘通沿いの~」
「230号線を真っ直ぐ行って~」
とかそういう地理感覚ができた。
というか、生活エリア以外はそういう感覚しかないのだ。
 
昔はさ、「36号線の~」とか言われても「は?」だったわけよ。
車を運転しない人間にとっては、道路の名前なんてわからんわい。
チャリ野郎にとっては道路ベースで行き来する感覚がないからな。
基本的に自分の家の生活圏の道路しかわからない。
下手稲通とか稲山通とか石狩手稲線とか5号線とか、
それくらいかな、車乗るようになる前に知ってたのは。
 
正直、36号線だの、12号線だの、石山通だの、そんな遠くの道路は、
手稲区民にとっては、完全に把握範囲の外にあるのは当然であって、
でもやっぱそういう道路の名前が会話の中にポンポン出てくる奴がけっこういたのも事実なのよ。
それを何故か、と考えると、ようやく答えが出たのよ。
家庭環境の違いを明確に表しているんじゃないかと。
 
よくよく考えたら、物心ついてから親の車でどこか行ったことって、
1年に2~3回、親戚の家に行ったことくらいしか思い浮かばないんだよなぁ。
しかも親戚って全員手稲区(笑)
親の車であちこち連れてかれた人とは、基本的に行動範囲が全く違うし、
そのぶんチャリでかなり幅広く活動してたものの(西は大浜、南は中央図書館、東は元町、北は新琴似程度(笑))、
さっきも言ったようにチャリなんて道路ベースの移動じゃないからそういう概念育たないしさぁ。
 
逆に言えば、車に乗るようになると、市内どこ行ってもすっげー新鮮。
どこも行ったことないから。
ましてや市外なんて、物心つく前に大浜(キャンプ)、三笠(親戚が一時期長期出張で住んでた)、トマム(親爺の会社で1部屋持ってた)くらいしか行ったことないから、行くトコ行くトコ全てが初体験なんで、目から鱗が1秒毎に落ちまくりですよ。
俺が運転好きなのの理由の一つは間違いなくそこにある。
 
それもあって、旅行ってもんが車じゃないと楽しめないのよ。
でも、車で行ける範囲なんてのは限りがあるわけで。
ジレンマだなぁ。



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電子の衝動。

April 24 2005 22:31

愛情というものがあるとして。
ではそれはどういうものかと尋ねられた時に、
その在処、様態を答えられるのだとすれば、
それはもう愛情ではないのだ。
 
人間の頭で作り出した徹底的に整合的な世界観とは全く違うベクトルの宇宙。



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世界-外-存在。

April 20 2005 23:14

何だか妙に人恋しい時期ってのが周期的にやってくる。
もともと一人でいるのに不都合が無いというか、姉キが9コ上ともなれば実質一人っ子みたいなもので、子供の頃から一人でいる時間が多かったためか、逆に一人じゃないほうが息が詰まったり不自由が気にくわない感じで。
そんなわけでプライベートにおいてはどうしても排他的な感じな俺ではあるが、ふとした時にそこに孤独感が芽を出すことがある。正確にいうと孤独感というよりは寂寞感に近いものかも。
誰が何を満たしてくれるわけでもなく。それは痛感しているのに。でもそういう理屈じゃ抑えられない究極的な無情。



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とある文章を読んで考えた、とある独り言。

February 26 2005 01:54

そもそも人によって「適切な距離」が違うからこそ、
それを気にする必要が無いのではないかということ。
 
お互いに必要とする距離が同じであれば、そこに安定感は生まれるし、
そうでなければ、そこには不安定しか存在しないだろう。
人間は無意識的に必ず安定感を求める動物なので(「自分は不安定を求めている」と思い込む人もいるが、それはそう思ってるという自意識が安定感を生み出しているのだと思う)、二者間の距離が不安定に感じる時、
それがお互いに「適切な距離で大切に付き合い続けていきたい人」だという意識があるのであれば、
話したりしているうちに自然と適切な距離に移行するはずである。
 
だから、それをいちいち気にし過ぎていると、
それは自然な調和を阻害する要因にしかならない。
自分は自分でいるべきなのだ。
人間というものは完全にイーブンな立場に立っているのであって、
もしそれで安定が生まれないのならば、
どっちがどうしようとも不安定は解決しないだろう。
 
そんなものだ。
気にする必要は無い。



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