コミュニティとしての所在を考えながら。

August 19 2005 23:58

結局はそこに描くのはどういうイメージなのかが問題で。
両足だろうと、両目だろうと、
そこにアプローチする存在の希薄さは痛感するという不毛なオプティミズムは、
誰にも最悪の姿に見えるから。
でも、明後日の生活と一昨日の生活のリンクを図るという一見無意味な作業は、
その中に底流として流れる自分内正当化メソッドにおいて数多くの示唆を与えるわけで、
それが最終的な部分の自己本位の在り方に直結するのかもしれないし。
言ってみれば、見えない先にある自我の到達点の一部を想像することという、 答えの見えない、
それでいて自分という人間の一個別化を意識した瞬間から意識下に存在する、
そんな如何ともし難い厄介な代物を抱え込む愛しさとか、悦びとか、そういうもの。
知ったこっちゃないって言やそうなんだし、
そこに関してエゴを発動してどうこうも無い。
とは言え、意味有る他者が 社会的結合という各自の頭の中に作りあげた鎖の中にしか存在し得ないのと同様、
意味有る自己なんてのも、自分の作り出した偶像の中にしか存在し得ないわけで、
そんなことにいちいち何か論理的帰結を要求したところで、何が変わるわけでもないから。
外部のどんな事象とも関係性を持たない、
また同時に、どんな事象とも関係を持ちうる、
そんな意味の無い衝動や、感動や、パッションといった、そういうのを見出していきたい。
 
その結果として得られる失敗や成功やナンタラカンタラは、
かけがえのない明日や明後日やそん次の姿。


Categories: 考える。

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