磨製。

January 17 2005 21:36

「肉体不平等~人はなぜ美しくなりたいのか?~」
今日読み終わったこの新書がけっこう面白かった(後半は内容薄かったが)。
というわけで、考えたことなぞ徒然と書いてみる。
精神医学的には醜形恐怖という症状があって、
要は自分の外見が醜いと必要以上に思いこんでいて嘔吐などにまで至る人がいるらしいのだが、そこまでではなく、その程度の軽度なもの、自分の外見に軽いコンプレックスを抱いている人が加速度的に増加しているらしい。
敢えて告白するなら、俺もその一人である。
それこそ徳大寺有恒らと同じく、若い頃から身体コンプレックスを自覚しなかった時期など全く無いとまで言える。
平均よりちょい低いくらいの身長、お世辞にもいいとは言えない顔、いくら食べても肉のつきにくい痩せぎすな体、等々、はっきり言って身体中にコンプレックス爆弾を抱えて生きてる。
学校であれサークルであれバイトであれ、他者を見る度にプチ劣等感に苛まれているのは純然たる事実だ。
ほとんど他人には言わないのであまり皆気付いていないかもしれないが、24/7、俺の脳裏からコンプレックスが消える瞬間は無い。
 
著者によれば、それまでは「見られる」性では無かった男性が、急速に「見られる」性になってしまったという。
それはまさにその通り。
我々は否応なく、人を好きになったりなられたり、そういう感情の渦の中に投げ込まれているわけで、その中で「自分がどう見られているか」を完全に黙殺することはできない。
男女の関係の中で、どうしても外見の持つ役割は大きい。なんせ人間の五感の中で、最も長い時間働いているのが視覚なのだ。どうしても外見がその人間のイメージを形成するうえで最も象徴的な要素になることは免れ得ないだろう。だからこそコンプレックスは消えることなく、女のコを意識する度に、それは肥大化していくのだ。
 
例えば何かのきっかけがあれば、そんなコンプレックスも多少は解消されるのだろうが、残念ながらそんなきっかけは無い。要は自信の問題だというのはわかってはいる。少なくとも頭では。
しかし様々な経験とコンプレックスの相乗効果で、自信はどんどん喪失し、コンプレックスは増大する悪循環。こう考えると、結局のところ、コンプレックスというものを解決する手段なんてものは、絶対に存在しないのではないか、と思える。コンプレックスというものは、それがそうだからなのではなく、それがそうであるとしか思えないからコンプレックスなのだから。
 
本書では「身体コンプレックスを飼い慣らす」なんて偉そうなタイトルの章もあるが、通り一遍のことしか書いてないし、何の役に立つとも思えない。
というかこの本はどの頁を開いて見ても結局は
「容貌が良いと得をする」
「外見が社会的・対人的に最も重要視される」
ってなことを延々と書き綴って「麗人賛美」に終始している。
新書なんつー文芸的な場でそんなことを言うのもどうかとは思うが、それが真実なんでしょーがないのか。
 
俺は外見的コンプレックスがあるからこそ、それ以外の部分は徹底的に自分を盲信して、自分の決めた道を突き進むことに決めて生きてる。
おそらくは、誰もがそうやってバランスをとっていくしかないのだ。
どこかに自信が持てない部分があるなら、自信を持てる部分を徹底的に盲信していくしかない。
 
きっと著者が言うほど、外見が全てじゃない。
外見が主要構成要素かもしれないが、それ以外の部分がきっとオーラになって出てくるはず。
実際、外見はそんなにいいわけじゃないのにモテる奴だっていっぱいいる。
結局は全てひっくるめた問題。
だから、とにかく努力して自分を磨いて、んで足りない部分をカバーするような、そんな繰り返しを、地味にやっていくしかないじゃん。


Categories: カルチャーの嵐。

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