人間として。
やっぱもぅ、無理だな、と。
思うことも、しばしば。
人間には、
最低限、
人間として、
人間に対して、
守らなければならないことがある。
それができないのなら、
やっぱ、無理でしょ。
親しき仲にも礼儀あり。
それは、
当然のことだ。
やっぱもぅ、無理だな、と。
思うことも、しばしば。
人間には、
最低限、
人間として、
人間に対して、
守らなければならないことがある。
それができないのなら、
やっぱ、無理でしょ。
親しき仲にも礼儀あり。
それは、
当然のことだ。
どんなに眠い日でも、
23時を過ぎると途端に目が覚める。
ヘビーチャッターだった頃の、
テレホタイムの名残りがまだ躰から抜けないようだ。
っつーか、
今のネット者のうちの何割がテレホタイム経験者だろう。
寒い寒い。
でも暖房はつけない。
なんの修行だ。
俺が今まで言った、最も強力な悪口。
「この円借款め!!」
相手には、罵倒されているのかどうかもわからないだろうが、
俺は精一杯MAXレベルに罵倒したつもりだ。
車に乗るようになってからというもの、
傘なんぞ使うことがついぞ無くなってしまったわけだが、
そりゃぁ俺も昔は人並みに相合傘など嗜んだこともあるわけだ。
そこで思うこと。
永遠の疑問。
濡れずに相合傘をさすことは可能か?
小学生ならいざ知らず、
少なくとも170cmやら150cmやらの立派な壮躯を持った大人二人が、
通常の傘1本のかかる範囲の下におわしますことは不可能と思えるのだが…
少なくとも俺は遠い昔の相合傘の記憶を紐解くと、
ほぼ毎回片肩が濡れ放題だった記憶があるわけだが。
傘の面積を考えると、
よほど密着しなければいけないわけで、
最も効率的なのは、向かい合って抱き合うような形だと思うが、
どう考えても歩きにくい。
ランバダかと。
とりあえず、俺がいつの日か再び相合傘をさす日が来るまでに、
正しい相合傘の方法を知っている人は教えてたもれ。
ということをふと思った雨の朝。
高校生になって、
大学生になって、
大学院生になって、
フリーターになって、
そんで今があるけど。
でも、そん中で何が変わったの?と言えば、
実際のとこユグドラシルの部分は何も変わってない。
積み重ねたり、それを一回崩したり、
そういうのは繰り返してきたけど、
真ん中にあるものは一つ。
バベルじゃないから、
何かがバラバラになったりはしない。
何かが変わったというなら、それは、
位置や角度が変わったのではなくて、
建材が変わったっていう、それだけのこと。
気付けばいい。
気付かなくてもいい。
楽しまなきゃ損なのです。
誰かの顔色を窺ったり、
躓くのを恐れたり、
そんなことはどうでもいいのです。
そんなことを気にしている間に、
動かないのに慣れてしまった心の手足は、
萎えてしまって動かせなくなるのです。
人生は旅、と誰かは言った。
旅の恥は掻き捨てなのです。
自分が思っているほど、他人は見てなんかいないのです。
恥をかきたくないなんて、
そんな自意識過剰、
そろそろやめてもいいと思うのだけれど。
昔憧れていた何か。
今それをやろうと思ってください。
でももう遅いとか、
バカな夢なんてとか、
そういう風に思う人は、
心の手足がもう萎えてしまって動かなくなっています。
それだけのことです。
リハビリから始めて、
もう一度動くようにすればいいという、
単純な方法で解決する問題なのです。
理屈ばっかりこねて、
踏み出せない足のやり場。
GAKU-MCの言う、
「中学の僕が今の僕を見たならば、尊敬はされるのか」
クロールしていくのです。
やりたいことをやる。
いい齢して何やってんの。
なんて、俺にとってはこの上無い褒め言葉。
力を抜いて流れに任せてりゃぁ、
結局辿り着くのはよく見た場所。
それ以外のとこに行きたきゃ、
行き着けるかどうかは別として、
足を動かし続けるしか無いわけで。
どの時点で、もう流れに任せちゃおー。
なんて思うかの差。
自分にとってどっちが辛いかはわかってるんで。
「音楽を愛せ。
そして音楽に愛されよ。」
とは、俺様の名言なわけですが(謎)、
音楽を愛して愛して愛しちゃったのよ。
な人生も遂にその熱情が衰えることなくここまで来ました。
昔の話になりますが、
恋人なひとに、
「どうせわたしは音楽以上の存在にはなれないから」
と諦められたことも楽しい思い出です(萎)
何故俺はこんなに音楽を愛してしまったのか。
おそらく一番大きなきっかけになったのが、
小学校低学年という一番物事を吸収する時期に、
有頂天に出会ってしまったことだと思われます。
おまけにその数年後にはイカ天にハマり。
よりによって音楽的に濃い所に触れてしまった多感な時代。
こんな少年が、世の一般的な人のように、
音楽と適度な距離を保って生活ができるわけがありません。
それから15年以上経過した今となっても、
この2つの影響は半端なくデカいのです。
この度久々に結成したバンドのコンセプトだって、
結局はそこに行き着いてしまう。
初めてバンド活動をしたのが、中学2年の時。
世のバンドマンの9割近くが、
「モテたかったから」という不純な動機でバンドを始めるという統計をどこかで見ましたが、
何故かそんな気持ちは俺の中にほんの欠片も無くて。
「音楽は爆発だ!」
と俺が言ったかどうかは定かではありませんが、
「音楽はアートだ!」
と思ったのは確かです。
普段は全開することを社会的に認可されない自我。
それを全開させるという狂気と正気の狭間の自己表現。
音楽というものは、俺にとってそれだけなのです。
見渡してみればどうでしょう。
今、世の中に出回る音楽のうち、
作者の自我がこれでもか!というくらい出ている音楽がどれだけあるというのか?
少なくともメジャーレーベルでできる範囲では殆ど無いと言っても過言では無く。
そんなもんは音楽では無いのです。
他の人と同じことを言ったら価値なんて無いのです。
「こんなこと歌っときゃ一般ウケするだろう」
なんつって出来た楽曲なんて、
「国民のために」なんて言ってる政治家と一緒なのです。
とまぁ、こんなことを思うようになったのも、
結局は有頂天とイカ天のせいな気はするわけなのですが、
ともあれ音楽について語らせたらたぶん4年間くらいは話し続けます。
なかなかこれだ!という曲に巡り会うことはありません。
月間、平均130枚くらいのシングル盤がリリースされますが、
まぁそのうちの9割方は聴いていますが、
「いいの来たな」とニヤリとできる楽曲は、
せいぜいそのうちの5曲程度です。
だからこそ、それを追い続ける熱情が絶えることが無い、
とも言えるわけなのですが。
昔、平山雄一は
「音楽は感受性のNEWSだ」
と言いました。
俺的には、この言葉は全ての音楽評論の中で最も金言だと思うのですが、
つまるところはそういうことなのです。
自我と自我というのは、必ずせめぎ合うものなのです。
発信されたものが、相手のためにあってはいけないのです。
それは最終的には、自己満足を過度に濃縮して、放散したものであるべきなのです。
俺が中学校の時音楽を始めた理由の一番大きな所はそこです。
溜め込んだ感受性を限界破裂させるのが音楽の存在意義です。
人生に予測や打算はいらないのです。
感じたことが、全てなのです。
そして、そこには音楽がある。
それだけの話です。
10連勤のまだ4日目なのに、なんだか異常に体がだるい。
あと6日もつのか俺。
最近、友人諸氏に顔色の悪さと生気の無さを指摘される機会が多い。
砒素でも盛られているのだろうか。
そういえば最近胃が慢性的におかしい。
砒素?ストリキニーネ?
さすがにそんなことは無いが、
たまには連休が欲しいかも。
最後に2連休取れたのってお盆?
疲れがたまりすぎてるせいか、
この前、温泉に行く夢を見た。
気持ち良かったーーー!!!
と、心は少し快復したようなしてないような。
体は全く快復してないので何の解決にもなっていない。
今月は久々の連休がある。
ので、本当に温泉に行きたい。
そのまま3年くらいつかっていたい。
ふやけて温泉の一部になるか、
超健康体になるかは、
五分五分。