美しい日々は僕までもは美しくしない。
出会えてよかった人がいて、
中には、出会わなかったほうがよかった人もいるけど、
じゃあ、出会えたことでいろんな成長や、素晴らしい影響や、
そういうものをたくさんもらったけど、
でもそのことで、
自分の中の今までの思い込みによる幸福の過大評価ってものを、
錯覚だったと完膚無きまでに気付かされて、
ちょっとやそっとのことで幸福を感じなくなったとすれば、
その人は、出会ってよかったのか、そうじゃなかったのか、
永遠の、謎。
出会えてよかった人がいて、
中には、出会わなかったほうがよかった人もいるけど、
じゃあ、出会えたことでいろんな成長や、素晴らしい影響や、
そういうものをたくさんもらったけど、
でもそのことで、
自分の中の今までの思い込みによる幸福の過大評価ってものを、
錯覚だったと完膚無きまでに気付かされて、
ちょっとやそっとのことで幸福を感じなくなったとすれば、
その人は、出会ってよかったのか、そうじゃなかったのか、
永遠の、謎。
抑えきれないものは、そりゃぁ、ある。
でも、君は、いつでも俺のそんな感情に、気付かないふりをする。
困るのは、わかってるし、仕方ないから、悔しくは、ないけど。
現実ではない恋の詩。
幸福は誰にも平等にやってくるわけじゃない。
まこ氏の日記に触発されて、俺も俺なりに書く。
たとえば、だれかが、十個、贈りものをもってくる。
みっつくらい、自分の望まないものだったとしたら、
残りのななつは、どうしますか。
センスのないみっつは、どうしますか。
それらをもってきた相手を、どう思いますか。
っていうか、きっと俺には、十個も持ってこなくていいよ。
最初からそんなことは望まない。
たいがいの物は、欲しけりゃ自分で集めるし、
もう持ってるものだって、きっと、たくさん、ある。
ただ、どうしても欲しくても手に入らない何か1つか2つだけ、持っていてくれればいい。
例えば1000個の贈り物の998個が望まないものだったとしても、その1つか2つで、きっと、愛せる。
そんな愛し方は、いけないかな?
遠慮しないでこっちおいで。
余計な心配とかしなくていーから。
奥底の本心に素直になって、
後のことはそれから考えりゃいーのさ。
この何年かを振り返って、
「ごめんね」と
「ありがとう」
この二つを素直に言えるようになったのが、
一番の成長なのかな、と思う。
すごく困らせたと思う。
本当にごめんね。
そして、本当にありがとう。
不用意に傷つけた俺の原罪を、
何年も背負って生きています。
優しい人になることが、
その過ちに対する懺悔だと思っています。
少しはやさしくなれたかなぁ?
その答えは自分にはわからないから。
だから、そうあるために、
原罪を胸に大切に、生きていきます。
包みこむことが苦手だった頃に傷付けたコ。
いろいろな経験の中で今は優しくなれた自分と。
時間が経って、もう何もかも元には戻せないけど、今ならどうかななんてありふれた想像。
傷付けたぶんだけ、きっと今でも心の中では一番大事にしたい人。
あの頃の想いは、色褪せず持っているから。
たぶん当事者だけにしかわからない、世界の何処にも無い不思議なカタチ。
既存の人間言語では表現できない、
近くもない、遠くもない、中間ですらない、
新しいマインドケイション。
人の話を聞いてたりしてふと思ったこと。
愛するヒトと一緒にいるってことは、つまるところ、どこまで自分をさらけ出せるかが肝心なのではないかと。
だって、関係に於いてその維持のために何らかの打算をすることは、たとえそれが「一緒にいたいから」という純粋な愛情に基づくものであっても、そこには「相手に見せていないホントの自分」と「相手に見せている虚飾の自分」の二面が存在することになってしまうわけで。
そのギャップが結局はお互いの感情の間に絶対的な壁を作ってしまうと思うのよ。
そうじゃなくて、二人の仲にとって有利なことも不利なことも全部わかり合ったうえで、それを受け入れ合うこと。
その前提が無ければ、どんなに愛情を持ってようとも、それは欺瞞にすぎないわけで。
自分の見せたい部分だけ見せて、それで愛だ恋だいうのは何か違うんじゃないかと思うんだよな。
人間関係はGive and Takeだなんて今やわざわざ言わなくても全ての人の潜在意識下に刷り込まれた理論様式があるけど、GiveとTakeは必ずしも別次元に配置されたものではないと思うわけで。
Give=Takeである状況を非現実的だとか、偽善だとか思うなら思えばいいし。それで俺が自分の考えを変えるわけでもないから。
Giveの中のTakeを見付け出す、そんな非機能的・非合理的な作業を毎回毎回繰り返してるけど、少しずつ成果はあがっているよ。
あとちょっとの辛抱だ。
Merry Christmas To Us。