少しは大人になった僕らが。
某ライヴにてまこ氏と偶然出会う。
奇跡のような確率。1997年3月以来の再会。
なかなか無いぜこんなこと。世間は狭いと言うべきか何と言うべきか。
なんせ180万人が住んでる札幌。
めったに偶然知人に会うなんて無いことじゃんよ。
今月は何かの不思議な力が働いてる時期なのかも。
いろいろありすぎて、そう思いますよ。
某ライヴにてまこ氏と偶然出会う。
奇跡のような確率。1997年3月以来の再会。
なかなか無いぜこんなこと。世間は狭いと言うべきか何と言うべきか。
なんせ180万人が住んでる札幌。
めったに偶然知人に会うなんて無いことじゃんよ。
今月は何かの不思議な力が働いてる時期なのかも。
いろいろありすぎて、そう思いますよ。
さぁ師走ですよー!
最近はどうも運気の乱高下。今は激下降時期ってなとこか。
上がるのかねぇ。上がることを期待はしてるけど。
まぁ、何があってもくよくよしないのが俺だからさぁ、深く考えずに行きたいもんです。
なんつっても、 やらなくて後悔するのは嫌だから、 やって失敗するほうを選ぶわ。
ってお題目のように唱えながらでも自分を奮い立たせないと、
足ばっかすくんじゃって安全圏にいようとばっかするからさ。
どうせ無駄だったよ。。なんて言い訳、自分にするのって格好悪いじゃん。自分で自分を好きになれないじゃん。
だから、バカみたいに思い切ってやってみるわけで。
きっとバンジージャンプとかスカイダイビングのときの気分。
やったことないけどさ。
やってもやんなくてもすっきりしないなら、
やるだけやったほうが、一応結果は出るぶんだけいいし。
難しいけど、恥は掻き捨て。
頑張れよ俺。
自分のキャパシティが試される場所。
そんな場面で当たり前のように切り込める奴はすごい。
顔色を窺いながらタイミングを計るも、結局は考えすぎて逸機。
そんな俺みたいな人間との決定的な差ってのは、
経験なのか、
自信なのか。
退路のない状況に追い込まれたらできるのに、
そうじゃなければ周囲に任せちゃうのは、やはり自信の問題?
相手の心の中が見えるスコープを下さい。
そんなことを言ってる段階で、既にダメなのはわかってるけど。
向かう所が何かはわかるような、わからないような。
でもそんなことが問題なんじゃなくて、結局は自分をどこまで愛せるかでしょ。
愛しすぎて甘やかしちゃダメだし、
愛さなさすぎてなげやりになってもいけない。
そんな微妙なバランスの中でたまに思い切ったりなんかして、
そんで向かうトコ、
見えるような、見えないような。
Move On。
できることとできないこと。
そりゃぁまぁ人間それぞれどっちもあるわな。
でも、多くの人が「できない事」と「できないと思う事」を
自分の頭の中で都合良く混同しちゃってるんじゃねーの、って思う。
そりゃぁ、やり遂げるのに多大な困難を伴うことだってあるだろーよ。
だから知らず知らずのうちに
「自分じゃ力が足りない」とか
「自分は所詮こんなんだから」なんて自分で言い訳しちまって
「できないから諦めよーっと」ってなっちまうんじゃないの?
やっぱどんな事でも一回足ぐっと踏ん張って、
諦めそうになるのを振り払って、
やれるだけやってみりゃいーじゃん。
そんで本当にできなかったら、それはそれでいいわけだし。
取り返しなんていくらでもつく。
中途半端に自分を卑下して生きるよりも、
やるだけやった自分に満足して生きるほうが、
絶対に楽しい。
今何やってんだろうあの娘。なんて遠い記憶。のすたるじー。
何事においても過分に感傷的なのが欠点で。
それゆえ自らの心情的充足感を満たすために、
恋愛につけ、友情につけ、仕事につけ、
とかく「無私」の行動に出てしまうのが、後々で損となって降りかかる原因。
なんだかなぁ。
打算的な行動をとれたら、と思ったり思わなかったり。
結局は、他者に対する思いやりの気持ちと、自己に対する呵責の感情こそがその根源なのであって、その二つの要素の導き出す結果として、自己を曲げざるを得ない、ひいては自己を見失う所にまで行き着くのだと思う。
でもそれは同時に「他者への思いやり」という人間が最も誇るべき美徳を自分が備えていることに気付かなくてはいけない。
自己嫌悪に慣れすぎた心は、何らかの理由を頭の中で捻り出して「そんなことないし」なんて否定しちゃったりもするけど、でも、見る人が見ればわかる。わかるから。
そんな部分を持った人間ほど、他者との関係の中で傷つきやすく、また同時に、そんな自分に気付きにくい。
人間なんてみんな利己的なもので、自分の価値観だけを物差しにして、他者の価値観の存することすら忘れたりする。
そんな中で、他者の価値観の存在を痛いくらい気付いてるからこその「自分を曲げる」という無意識の行為。
いいのにさ。もっと自信過剰で。もっと攻撃的で。もっと傍若無人で。
それは決して悪いことなんじゃなくて、理解されにくいだけ。
だから。
愛情によく似た友情とか、友情によく似た愛情とかって、絶対に存在する。何故って、愛情と友情って、本当はよく似たものだから。
人の話を聞いてたりしてふと思ったこと。
愛するヒトと一緒にいるってことは、つまるところ、どこまで自分をさらけ出せるかが肝心なのではないかと。
だって、関係に於いてその維持のために何らかの打算をすることは、たとえそれが「一緒にいたいから」という純粋な愛情に基づくものであっても、そこには「相手に見せていないホントの自分」と「相手に見せている虚飾の自分」の二面が存在することになってしまうわけで。
そのギャップが結局はお互いの感情の間に絶対的な壁を作ってしまうと思うのよ。
そうじゃなくて、二人の仲にとって有利なことも不利なことも全部わかり合ったうえで、それを受け入れ合うこと。
その前提が無ければ、どんなに愛情を持ってようとも、それは欺瞞にすぎないわけで。
自分の見せたい部分だけ見せて、それで愛だ恋だいうのは何か違うんじゃないかと思うんだよな。