考えない人。
意味があることをするより、意味がないことをするほうが何十倍もむつかしい。
意味が無いことをしよう。言おう。書こう。
そう思っちゃった段階で、それはもう意味を持つ。
でもさ。
見えない何かは、いつでも意味の無い何かの中にある。
考えちゃうのが、俺らの悪い癖だ。
意味があることをするより、意味がないことをするほうが何十倍もむつかしい。
意味が無いことをしよう。言おう。書こう。
そう思っちゃった段階で、それはもう意味を持つ。
でもさ。
見えない何かは、いつでも意味の無い何かの中にある。
考えちゃうのが、俺らの悪い癖だ。
いろんな人のいろいろを見て、いろんな人のいろいろを聞いてわかった一つのこと。
社交的と非社交的が付き合ったら、最終的には絶対うまくいかない。
人間は、好きな相手との距離感を論理で補正できるほど器用じゃないから。
何事もさ、
けっこうやりすぎ。
なくらいが丁度いい。
常識力が、どうしても物事の効果を下方修正するから、
普通よりちょっと外に行くには、
普通よりずっと外くらいに行っちゃう感じで。
恥とか、失敗とか、
そんなんはどんどんネタにしちまって、
そんで、じゃあ。って。
やりすぎてダメなことになるのと、
何もしないで、ハナっから可能性が無いのと、
どっちを選ぶかは、抱えてるもの次第?
俺は何も抱えないから、
それでいい。って話。
なんだろう。
話しているとなぜか不思議にあたたかい気持ちになる人がいる。
何でなのかな。それはわからないんだけど。
人をあたたかい気持ちにさせる力ってのは、なかなか持ってる人はいないけども、
どうなんだろう。その種は誰しもが持ってるものなのなのかな。
そうだとすれば、俺のその種もいつか芽吹いて、そんで、誰かに与えられた何かを、同じように誰かに与えることができるようになるだろうか。
容赦なく押し寄せる悩みやら腐りやら失望やら、俺の中のなんやかんやを、すべて溶解させてくれるひとに尽きざる感謝。
そうやって、今日も立ってる。
ふと見上げると下弦の月。
下弦の月に何の思い出もないし、
何の思い入れもないけど。
いつか下弦の月にセンチメンタルを感じる日が、来るかな。来ないかな。
エンターテイナーとして必要なのは、
喜劇的サプライズと、
絶対的ロマンティシズム。
誰かに何かを伝えるには、
その二つが不可欠だ。
ある日ふと。
誰かや誰かの影響で、
自分にとっていちばん大事なものが何なのかを悩むこともある。
自分のために自分が生きること。
自分のために生きることが、つきつめれば誰かのためになること。
高次元ではそれはきっと、真実なんだけど。
発展途上な自分が誰にも何も残せていないという圧倒的な事実。
その中で、たくさんのものを失って、
誰かは何か小さな大事なものを手に入れて、
誰かが誰かに寄りかかって、
そんで何かが形作られてくけど、
じゃあそん中で俺のできることは何?
俺の存在意義は何?
振り返れば、何もない。
個というものは、
それ単体では個として確立することは、
論理学上不可能。
他との差違によってのみ、
個としての存在が決定し得る。
となれば、
個は、他との相互依存。
それを理解する処から、はじまる。
意味を破壊することより無意味を創ろう
(有頂天「大失敗’85」)
俺らは結局、
何かをしたがって、
でも既存の物の枠の中で、
それをああだのこうだの、
肯定したり、否定したり、
そうやって過ごしてるような。
そういうことじゃなくてきっと、
何かをする、ということは、
何かの前を歩くことじゃないかと思う。
自分がそれをする理由。
自分がそれをしない理由。
自分がそれを好きな理由。
自分がそれを嫌いな理由。
そんなことに頭を悩まして、
そこから生まれる何かって何?
生きているものに意味は無い。
そこに意味がある。
足踏みするつもりはないので。
所詮俺の人生なんて、あと何十年あるかわかんないわけだし、
その中で、やりたいたくさんのこと。
全部やらなきゃ損じゃん。
今は、今は、なんて言ってる奴に限って、
ゴールなんて漠然とした位置に設定しちまって、
まだまだあるやー。
なんつって、ペース落として、結局そのまま。
なんて。
そんなん、ゴールなんて見える処に置いちまってさ、
そこまでの距離と時間、
逆算したほうがなんぼか早い。
今、自分がどれくらい走るべきか。
今、自分がどれくらい休むべきか。
遅れてるなら、遅れてるなりの走り方があるわけだ。