不全。
人間の欲というものはかくも限り無く。
刺激に埋もれて壊死してゆく自我という名の細胞を知れ。
人間の欲というものはかくも限り無く。
刺激に埋もれて壊死してゆく自我という名の細胞を知れ。
人間として
生きるために。
自分の中の自分のオリジナルな感情。それが理性であれ、それが欲望であれ。その感情に自らの思考的判断によってブレーキをかける時、それは死んでいるも同然だ。
立ち上がれ
世の傀儡どもよ。
悩んだりするのもバカらしい。
自分ってものを考えたときに「社会の常識と隔離された位置にいる底抜けの馬鹿」ってのこそ自分だと気付いたら、何もかもがまぁいっか。って思えてきた。
いいじゃん、俺馬鹿なんだから。 前向きに生きるのが俺には合ってる。
不機嫌なソクラテスにはなりたかねーんだ俺はー!
他人の目なんて気にする必要なんてないし。
世間の常識という名の押しつけられたペースに合わせて生きることもないじゃん。
世間は世間で「何やってんの?」って目で見るかも知れないけどさ、俺は俺のペースで俺の信じるように俺の人生を生きてるんだもんいいじゃん。
意志の無い百歩よりも意志のある一歩。
中身の無い人生なんて送るつもりはない。
俺の、俺による、俺のための生き方。
ここ半年ほどは、自分の口調、自分の考え方、自分の生き方に素直に回帰できてるわけで。大学入ってからはしょーもない理由のために抑圧されてきた真の自己を、今は抑圧する必要もなくなったわけで。
足枷を外してくれたのはそのちょっとした一言だったり何だったり。そんなわけでその感謝は絶えることがなく。その存在の重要さは自分の今後に於いて絶対的に欠く可からざるもので。
いろいろな処でのくだらないしがらみに、自分の本当の生き方を見失うこともときにあるけど、今後もそんなときにはいつだって、迷える俺を叱咤激励してくれることを。
音楽をやってるときと、身体を動かしているときが、自分がものすごく自分そのものでいられているという実感を感じたり。
結局、思索・思弁なんつーものは俺の理性によって纏われた暑苦しい外殻にすぎないわけで、もっとネイティヴでプリミティヴな方向に俺の本質は位置しているっていうことに気付く最近の自分。
そんな自分が結構好きだったり。
俺自身の価値観に照らしてみればね。
何を失うとしても関係ないと思えるほどに。
自分を形成する3つの素因。それだけは。
分かり易さ、を追求したトコで、結局は自分に何も産み出していかないと思うし。
どんなに難解で独りよがりでも、自分の価値観だけは崩すつもりもないし。
他人には理解されない範疇で蠢く美意識の、さらにその中で精一杯抵抗してるから、それでいいのさ。
I’m so ambitious。野心の塊ですよ。きっと、いい意味で。
ある種の人間から見れば、最大の短所に見えるんだろうけど。
感情を抑制する全ての内的制御装置をぶち壊せ。
疑おうと思えば全てが疑わしく、勘繰ろうと思えば全てが勘繰り得る不確定な不安の中で、自分に都合のいい事ばかりを思い返しながらただ盲目的に信じることに決めた。それが自分なりの決意表明。後戻りはしない。