60億ナルシスツ。
人間なんてのは、
そんなに強いもんでもないし、
そんなに弱いもんでもないし。
それなのに、
なぜみんな強いふりをしたがる?
なぜみんな弱いふりをしたがる?
んで、そうやってイメージの殻かぶって、自己満足。
人間なんてのは、
そんなに強いもんでもないし、
そんなに弱いもんでもないし。
それなのに、
なぜみんな強いふりをしたがる?
なぜみんな弱いふりをしたがる?
んで、そうやってイメージの殻かぶって、自己満足。
意味があることをするより、意味がないことをするほうが何十倍もむつかしい。
意味が無いことをしよう。言おう。書こう。
そう思っちゃった段階で、それはもう意味を持つ。
でもさ。
見えない何かは、いつでも意味の無い何かの中にある。
考えちゃうのが、俺らの悪い癖だ。
エンターテイナーとして必要なのは、
喜劇的サプライズと、
絶対的ロマンティシズム。
誰かに何かを伝えるには、
その二つが不可欠だ。
個というものは、
それ単体では個として確立することは、
論理学上不可能。
他との差違によってのみ、
個としての存在が決定し得る。
となれば、
個は、他との相互依存。
それを理解する処から、はじまる。
意味を破壊することより無意味を創ろう
(有頂天「大失敗’85」)
俺らは結局、
何かをしたがって、
でも既存の物の枠の中で、
それをああだのこうだの、
肯定したり、否定したり、
そうやって過ごしてるような。
そういうことじゃなくてきっと、
何かをする、ということは、
何かの前を歩くことじゃないかと思う。
自分がそれをする理由。
自分がそれをしない理由。
自分がそれを好きな理由。
自分がそれを嫌いな理由。
そんなことに頭を悩まして、
そこから生まれる何かって何?
生きているものに意味は無い。
そこに意味がある。
足踏みするつもりはないので。
所詮俺の人生なんて、あと何十年あるかわかんないわけだし、
その中で、やりたいたくさんのこと。
全部やらなきゃ損じゃん。
今は、今は、なんて言ってる奴に限って、
ゴールなんて漠然とした位置に設定しちまって、
まだまだあるやー。
なんつって、ペース落として、結局そのまま。
なんて。
そんなん、ゴールなんて見える処に置いちまってさ、
そこまでの距離と時間、
逆算したほうがなんぼか早い。
今、自分がどれくらい走るべきか。
今、自分がどれくらい休むべきか。
遅れてるなら、遅れてるなりの走り方があるわけだ。
いつも言ってることなのだけども。
やっぱさ、人間、
自分一人で拡げられる何かなんて、限りが絶対にあるので。
だから、
いろんな人と遊んで、
いろんな人から刺激を受けること。
だと思うわけよ。
中には、人生をすっげー頑張って進んでる人もいれば、
中には、社会からの諸々で、人生を停滞させてる人もいるわけで。
それをさ、
一個一個、
自分のニトロにしたり、
自分の三面鏡にしたり、
そうやって進める領域って、絶対に、ある。
社会からの制約の中で、自分を縛っちまってさ、
アレはできる。
アレはできない。
なんて選定、
何の意味がある?
実際、やってる人がいるなら、そうだろ?
やってない人見てさ、自分見てさ、どうよ?
まだまだできることなんて、腐るほど有る。
面倒だの、できないだの、周囲がどうのだの、
そんなもんで立ち止まってふーん、なんて。
ドライなふりしても、
羨む心持ってないなんて、胸を張って言える人なんて、
たぶん、
いない。
前へ行くか。
回り道をするか。
どっちが早いかわからない場合、
もう直感に頼るしかないし。
それで大変なことになったとしても、
責任を取るのは結局、自分。
だから、ちょっと考えて結論が出ないなら、
ウダウダいつまでも考えてるより、
こっちのほうが前へ進めそう!
ってほうを、思い切って選んじまえばいい。
怖いけど、
恐れてる時間が無い。
救いようの無い精神の死の淵。
俺らはなんだかんだ結局、
よりよく生きるために生きてるんだけれども。
けれども。
蜘蛛の糸は絶えず眼前にあるのに。
それを掴もうとしないんじゃぁ、
きっとチャンスも最後。
自分で望むのなら本望?
無くなってから、
気付くさきっと。
俺らはみんな、
明日を生きるために今日を生きてるのであって、
明日の無い今日は無いし、
今日の無い明日も無いわけなので。
そしてそれは累ねられていって、
そんで振り返れば、そこには塔のように積み重なった道筋。
今日は一段。明日は次の一段。
土台を広げてないと、すぐに先細りして、
そんで、
そこまで。
いつか、
どこまでも、
積み累なっていく?
それとも、
バベライズ。
自分の中の融着が剥がれて、
バラバラになってしまう前に。