FEEL。
認められるものも、認められないものも、
周囲が重要なんじゃない。結局は、自分がそれが正しいという信念があるかどうか。
だから、どんなことだって、自分の中できちんと理屈が通るのであれば、
ありのままの立ち位置で、感情を抑える必要など無いし。
何らかの言葉で規定されるような関係ではなく、
自分にしかわからない、説明できない空気がある。
だから、もう、何も考えない。それでいい。
認められるものも、認められないものも、
周囲が重要なんじゃない。結局は、自分がそれが正しいという信念があるかどうか。
だから、どんなことだって、自分の中できちんと理屈が通るのであれば、
ありのままの立ち位置で、感情を抑える必要など無いし。
何らかの言葉で規定されるような関係ではなく、
自分にしかわからない、説明できない空気がある。
だから、もう、何も考えない。それでいい。
書評。
星新一「白い服の男」(新潮文庫)
前にもどこかで書いたと思うけど、基本的に星新一はそんなに好きなわけじゃないんだけど。
っていうのも、星氏のタッチって、軽妙すぎるというか、小咄、って感じでピシっと落として終わり。
みたいな、良くも悪くもあっさりした感じなのが、どうも俺に合わないのな。
重いテーマ好きなんで。
いやー、でもこれ読んで、すいません。ちょっと心を改めました。
星氏のショートショートにしては全体的に長目の作品ばかりだったんだけど、テーマがきっちり哲学的で読み応えありました。
得意の、意外性出してサクっと終わるタッチではなく、しっかり腰の重い打ち回しというか、芯を中心にして内容盛り込んでくから、余韻がきっちり残る。
全体として秀作の部類だとは思うんだけど、何が何って、一番最後の「時の渦」。
これはもう必読。
震えました。
今思い出しても震える。
できればハンコックとか読んだ後に読んでくれると、より一層感慨深いかも。
若い頃はさ、夜中に電話して、話すことも尽きずに、受話器持ったまま二人とも寝ちゃったりとか。
それが、今は、そんな情熱は、きっと、持てない。
人間の心にキャパがあるとすれば、あの頃のそんなスペースは、今はいったい何が占めているのか。少しずつ、いろんなものに均等に割り振られたりしてるのかな。
大事なものを一つ得たら、大事なものを一つ失う。そんなことはわかってるんだけど。
あの頃のあんな気持ちが懐かしかったりもする。
風はまだ冷たかった
僕ら初めてキスをした
それでも、それだけで、ぬくもりがふたり包んでた
秘密を打ち明けるようにして身体重ねあった雨の日抱きしめあって、確かめあって、それが恋だった
言葉だけじゃ足りなかった
疑いあって、傷つけあって、それが恋だった
君はひとりで街を出た僕だけが街に残った
胸に詰まる若葉の青
あれから、ねぇあれから、この季節が来るたびに抱きしめあって、確かめあって、それが恋だった
満たされるものじゃなかった
疑いあって、傷つけあって、それが恋だった
あのまま時は止まったいとしさに声は枯れた
孤独が僕を放さない
今でも、これからも待ちきれなくて、待ちきれなくて、それが恋だった
誰かのためじゃなかった
それが恋だった
(谷口崇「それが恋だった」)
俺とあのコが体を重ねて、
今日はあのコは誰かと体を重ねて、
明日は誰かがまた別の誰かと体を重ねてる。
そんなもんだ。
人間なんだから、
当たり前だ。
規定なんてものは、
その瞬間は簡単に消える紐帯。
あのコの上にいるって、それだけが真実じゃん。
余計な事を考える必要はなかった。
1人のコの熱烈な愛情よりも、
10人のコが兄貴と見てくれるほうが俺は嬉しい。
どっちかを選ばなきゃいけない状況なら、
迷わず後者を選ぶ。
社会常識的には、それで満足してちゃいけないんだろうけど。
でもやっぱ、頼られたりわがまま言われたりするのって、嬉しいじゃん。
最大多数の最大頼られ。
兄でいることを優先しちまうから、
40とかになった頃、
「だい兄!早く結婚しないと妹として心配だよ!」
と妹たちにせっつかれる光景が容易に想像できる(笑)
まぁ、そんなのも楽しみだったりするわけだ。
どーしょもねぇな。
自分のいろんな率直な思いとか、そういうの。
状況が許さないことだって、もちろん、ある。
だから言ってみたいのさ。
「生まれ変わっても一緒にいよう」
じゃなくて、
「生まれ変わったら一緒にいよう」
なんて言葉、知ってたかい?
さぁ、童謡の時間だよー!
僕らはみんな、生ーきているー♪
生きぃているから、
欲望に心を縛られたりして、いろんな大事なことを忘れて、誰かを傷つけたり、そのくせ、それでいてそんな自分を責めたりして、どうしようもない絶望に浸っちゃったりするけど、結局そんなの安っぽいヒロイズムだから、またすぐに同じことを繰り返したりしてるんだ。
僕らはみんな、生ーきているー♪
生きぃているから、
傷つきたくなくて、自分の本心に嘘ついたりして、今目の前にある困難をただ回避することが格好いいクールなやり方だなんて勘違いして、結局そこは、ホントに自分が行きたかった場所じゃなかった、なんて、そんな笑えもしねー状況を生み出したりするけど、今さら後悔しても遅かった、なんてことを、戻れなくなってから気付くんだ。
みんなみんな下らないことで騒ぎ立てて、感覚が麻痺しそうだけど。
女のコと二人でごはん食べに行ったり、酒を飲みに行ったり、
そんなに特別なことかな?
俺からしてみれば、男だの女だの、ってくくりよりも、
まず「ともだち」ってくくりのほうが優先するけど。
俺が、取引先の女のコと飲みに行くっちゃぁ大騒ぎして、
妹分と食事に行くっちゃぁ大騒ぎして、
「だいくん、やるんでしょ」なんて。
正直、そういう反応って、どうかと思う。
別に生物学的に、社会学的にみて男と女だからって、
必ずしも恋しなきゃいけないわけでもないし、
セックスしなきゃいけないわけでもないんだし。
そういう感情が無いなら、同性と遊びに行こうが、異性と遊びに行こうが、なんら変わらないわけで。
実際、俺が今年に入ってから二人きりで遊びに行った友達6人、全部女のコだし。
でもその6人となんかあったかって言えば何も無いわけだし、
何か下心があって会ってるわけでもねーし。
そうでしょ?
それをさ、男と女が二人きりで飲むのを、何かあるのよキャー!みたいな。
あんたら、異性の友達いないの?と。
男と女なんて、そんな複雑に考えなきゃいけないもの?
別に何も意識しなくても、何かある時はあるし、無い時は無いし。
何も意識してなくても、どうかなる可能性だってあるけどさ、
別にそれはそれだし。
そんなもんはどうこう考えてどーの、ってもんでもないんじゃない?
男と女だから、配偶者や彼氏・彼女がいる場合は食事すらしちゃいけないとか、
そういうくくり、もううんざり。
俺は男である前に人間で、
あのコやあのコも、女である前に人間で。
そういう考え方って、間違ってるのかな?
ふと見ると、
いつからかわからないけど、
冷蔵庫が開いていたとき。
何年も前から推進してきた、
「呼称総だい化計画」
も、気付けばかなり進行していて。
いまや俺のことを苗字で呼ぶ人って、仕事関係くらいじゃねーの?
ってとこまで進んできました。
っていうか、ぜってー俺の苗字忘れそうな奴もいるって。
やったー。計画成就。
サークルの時も、あれだけ根強く苗字で呼ばれてたのに、
気付いたら呼んでる奴一人もいなくなったもんなぁ。
西弓だって、同期で鈴木とか高橋さんが苗字で呼んでくるくらいで、
後は後輩も含めて全員名前だよなぁ。
ネット関係の奴らはもともと俺の苗字知らないやつ多いしな。
そんなわけで、プロジェクトもあと一歩です。
仕事以外で俺を苗字で呼ぶ人が絶滅するように頑張ろう。